2024年6月読書記録 強烈な短編集二つと太宰治
6月に読んだ海外小説は3冊、『プロット・アゲンスト・アメリカ』は別記事で感想を書く予定です。
グレイス・ペイリー『人生のちょっとした煩い』(村上春樹訳・文春文庫)
村上さんの翻訳なのと、表紙にエドワード・ホッパーの絵が使われていることに惹かれて購入しました。
強烈な短編集です。個人の短編集でここまでエッジが効いた作品ばかり集めたものは読んだことがありません。
村上さんの翻訳だからと、カポーティやフィッツジェラルドの短編のような美しく繊細な作品を期待していたら、ショックを受けるのでは。ショックというか、生理的に受けつけない人もいるのではと思います。
語り手も登場人物も過剰で過激、独自の価値観を持つ人ばかりなのです。映画でいえば、セス・ローゲンやサシャ・バロン・コーエンのコメディ映画に登場するような人たち。日本ではあんまり人気がないタイプの映画だと思うのですが…。個人的には、刺激がほしい時に観て、けっこう楽しめますが、同時に落ち着かない気持ちにもなる。これほどの露悪的な描写を笑っていいのだろうか? と心のどこかで感じてしまうんですね。
ペイリーの小説でも、同じことを感じました。登場人物のエキセントリックな性格や言動に圧倒されつつ読み進めるうちに、「ああ、でもこういう部分って誰にでもあるんだろうな」と思えてきたのです。普通の人なら、押さえつけ、隠そうとするエゴや欲望を、ペイリーの登場人物たちは全開にしてさらけ出す。それだけの違いではないか、と。自分では見たくない自分の暗黒面(法律的な悪ではなく、倫理的な悪に近い)を見せつけられているような気もしました。
村上さんはペイリーの短編集を四作訳していらっしゃるので、他の作品もまた読んでみたいです。ただし、少し時間を置いて。連続して読むには刺激が強すぎる。
ハインリヒ・フォン・クライスト『チリの地震』(河出文庫・種村季弘訳)
ドイツの作家、クライスト(1777〜1811)の短編集です。これも強烈な作品ばかりでした。極限状態におかれ、理性をかなぐり捨てる人たち。ディスコミュニケーション。今、ネットで起きている炎上騒動を現実社会に移し替えたらどうなるかを体現したような作品が多かったです。人がわかり合えず、傷つけ合うのは今も昔も変わらないと思わせる読後感でした。
青空文庫では太宰治の三作を読みました。
太宰治『お伽草紙』
日本の昔話を太宰風に翻案した短編が4つ収録されています。「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」の四作で、特に後の二作が面白かったです。
「カチカチ山」ではタヌキとウサギの関係が中年男と若い娘、「舌切雀」ではおじいさんと雀の関係が高等遊民男と若い娘の関係に置き換えられています。
太宰が若い娘を描写するのを読むと、太宰は女性の本質がよくわかっていたんだなと感じます。もちろん、それは「男から見た女性の本質」に過ぎないのですが、そう限定してみても、それができる男性作家はあまりいない気がします。
特に日本の近代文学の場合、無個性で家父長制に従順に従うだけの女性像が多いですし、逆に、奔放な性格だったとしても、「男への反抗心のせいでそんな性格になった」と規定されたりします(有島武郎『或る女』など)。しかし、太宰は女性の性格付けに理由を求めません。それが彼女の個性なのだというように書いています。
男性にとって都合が悪い性格だったとしても、女性の個性として認め、受け入れる。女性の方も、太宰の性格(情けない部分やいわゆる男らしさから外れた部分も多い)を丸ごと受け入れたのではないか。そんな想像をしてしまう小説でした。
『パンドラの匣』
年代順に太宰の小説を読んできて、そろそろ後期の重い作風になるのかと思っていましたが、この小説は違います。結核療養施設に入所した青年が主人公ですが、死の影や暗さは全くありません。
主人公は、戦後に生きる自分たちのアイデンティティーをこのように定めます。『パンドラの匣』の中で、太宰はこの「かるみ」を表現しようとしたのではないかと感じました。
『十五年間』
『東京八景』などと同じ、過去を振り返る随筆風の物語です。負けるとわかっていた日本をなぜ応援し続けたかを、自分の過去作を引用しながら説明する部分に太宰の心情がよくあらわれていました。が、文壇批判に熱が入りすぎて、過去を振り返るという当初の目的を忘れてしまったようなところも。まわりの作家たちが心底嫌いだったようですね。
太宰マラソンはまだ続く。
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