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数字とは罪の積み重ね、魂における懲役換算年数

多くの人に影響力を持てば、それ相応の責任が伴われる。だから邪な考えで人々を導くような立場になってはいけない。頂点に君臨する者の心が腐ってるなら、それにぶら下がる人々の心もまた腐り行く。頂点の者、悪い木による罪は、ぶら下がる実にも感染し腐敗させる。

腐敗した愛が心に詰まってるなら、それをひりだして新鮮な愛を新たに生み出す必要がある。いつまでも腐敗した愛をふん詰まりさせ続けるならその集合体の健康は著しく損なわれ続ける。


数字とは罪の積み重ね、富も名誉も人気も全て人々の肉のピラミッドの階段を上がっていった結果の先にある魂の懲役換算年数。どんなに数字を増やしても罪は拭えないし消えることはない、罪とは悔い改める事しかできない宇宙の記憶。




消えない罪を隠そうとする事ではなく、その罪を償い悔い改める事が大事。普通に生きていても人は知らず知らずのうちに罪を蓄積させ積み重ねている。それを日々悔い改め、償い生きる。悔い改めることそのものが、罪の償いとなり戒めとなり、魂の成長にも繋がる重要なこと。

だから自分は、TwitterXでは0にしてる。確かに、心弱き自分は、その罪の責任を背負うのが怖い、それを誤魔化しているだけなのかもしれない。無責任と言われるなら、そうなるのかもしれない。

しかし自分は1人、100人でも1000人でもなければ、一億人の集合体でもない。1人が100人、1000人、一億人になるなら、この世界に民主主義などないし、個々の自由意思など存在していない。

自分は1人として生きていたい、十戒の石板が揃えば2つでワンセット。陰と陽は2つで1つとしてある永遠なる螺旋エネルギー。0は1つとなり、1つは2つとなり、2つはやがて3つとなり、やがて2つとなり、1つとなり、また0となる。


必要な物事を必要なだけ行い、必要なだけ頂くこと。それは共産主義ではない、神が定めたこの世のルール、自然の摂理であり、全ての生命は地球上にある自然法、本能としての宇宙の記憶としてある最大限の秩序の中で生きている。地球上にある自然なる流れ、本能には無駄なことなど一切発生しない。

弱肉強食は自然の中にある生命の流れ、それは強者だけが全てを得るための特権ではない。生み出し、渡し、消費するための自然の摂理としてある生命の流れ。

野性動物が生態系を維持してきたのは、その流れがあるからであり、知恵をつけた人間がその法則を破り、地球上にある神による秩序としてある自然なる無秩序、生態系の流れを破壊してきた。


生み出される愛は覚りによって欲望へと渡され、その消費したエネルギーの糧が愛へと戻りまた生み出す。太陽の光、光合成により生まれた生命を草食の生き物が頂き、その草食の生き物を肉食の生き物が消費し土に戻す。最後の流れはこの地の全てに自然と生態系の誕生を促し、全ての生命の望みとなり希望となる。その魂は光を受け、新たなる時を越えて、新しい生命の夜明けを待ち望む。


愛とは木製の杯から無限に流れ出る眩きもの、地球の生命を生み出す太陽の光、愛。美しいもの眩しいもの。

生み出す光は愛、神の聖杯となる。




肉食をすることに心を痛めるなら、それを素直に受け入れること。その心は痛みでもあり、喜びでもあり怒りでもあり、楽でもあり、悲しみでもある。

人は1日1食でも生きて行ける。その喜びと幸福を実感するために苦しみと悲しみがある。何者かの犠牲があるから至福が生まれ、全ての生命はその罪を背負って生きている、決して消えない罪を、宇宙の記憶と共に抱えて悔い改めながら生きている。

野性動物の健気な生態系、そこに邪なものなどあるだろうか。自分の目から見たら、全ての生命が哀しみと苦しみ、罪を背負いながら幸福を求めて、今を懸命に生きている、そう見えている。

地球は美しい、自然は素晴らしい、綺麗で眩しくてキラキラして希望に満ちている、なんて素晴らしい世界なのか、この美しくて壮大で綺麗な色とりどりの世界の中、とても悲しくてせつない、残酷で野蛮、そんな生態系の流れの中で生きる生命はどれも美しい光。


全ての生命は許されている、しかし罪は消えない、積み重なる罪は悔い改めることしかできない。どんな宗教に入っても属しても、真っ白な衣を纏ってもその罪が消えることはない。だから人は悔い改める。


美しい心のために、美しい生態系のために、美しい悔い改めのために信仰がある、神を信じ涙する尊い心、優しさの温もりがある。


清らかなる心は、美しい言葉とメロディーを奏で、眩しい思いを残酷で悲しいメロディーへと変化させる。

眩きものは眩きままに、崩れ行くものは崩れ行くままに。この世の残酷さと矛盾なる苦しみの答えを見つけたくば、神に身を委ねる。素直な心で愛を信じる、この神が全ての生命に与えてくれたアガペー、その神の心を疑わずに信じること。


目にも見えない、その周波数も聞き取ることはできない、できないがこの心の中にある愛が感じとる。愛は神の沈黙であり、聞こえない音の周波数、その周波数が聞こえた時、人は心の底から悔い改め、その優しさの温もりの中に包まれながら幸せの涙を流し悔い改める。どれ程に神の愛が深く暖かいかを、その身で思い知る。


これはキリスト教やユダヤ教、イスラム教、仏教、その他宗教の話ではないし、カルト宗教をやるための教義ではない。心の底から本気で神を信じ、愛を信じてきた、おかしな、変人の考えた、感じたもの、それを素直に表現しているだけの文章。


この心の振動は、奇跡の想い、愛の波紋を広げるための神のキュースティックが弾いた振動であり、それは白い玉となって別なボールにぶつかり大きな動き、波紋を広げる音。



原子と原子、素粒子と素粒子がぶつかり合いながらこの世界に色を塗ってくれる。神が持つキュースティックの振動によって、この色とりどりの美しい響きのメロディーは完成し、創世した。全ての生命の奏でるメロディーは悲しみのレクイエム。


我々の幸せは美しい光の神によってもたらされた、生態系のセレモニー。愛のレクイエム、哀しみのメロディー。


何故に我々は美しく、せつなくて、苦しくて、悲しく愛しき残酷な生命なのか。

とても淋しい、悲しい、弱くせつなく、儚く溶けては消える愛しき生き物。

隠され、誰にも見えない自分は、52ヘルツを奏で続ける鯨。











愛と許し、希望、夢、正義、優しさ、勇気。信仰とは美しき心になるための試練。

それは白い衣を纏うファッションではなくて、悔い改めるためにある、せつなくて儚い、生命の哀しみを表現した、悲しみのレクイエム。だから人はこのメロディーに心を振動させ、涙する。






罪を拭うためじゃない、消すためじゃない、白い衣を纏って覆い隠す事じゃない。赤い血に染まった衣を纏い、決して消えない罪を背負い、悔い改めること、それに気がつくために信仰がある。





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