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全ては動き、ムービング。宇宙の一部となる我々、全ての生命は既に全てを知っている

自分は今までずっと陰謀論について話してきたが、これ以上考え語っても無駄なのは理解してるので何度もやめようと思っていた。

どんなに話そうが、それを信じてしまった人に伝わらなければ意味がない。信じている人達はそれを絶対としてるので、どんな話をしてもまったく聞く耳は持っていないと思う。

普通に生きて暮らしている人達に国の策略や組織的な謀略を知り得る術などあるわけがない。隠されるなら、それを知るにはその隠された情報開示が必要になるが、そんなことをする陰謀を企てる組織など存在しない。ましてや、それを暴露したとされる人物の話でも結局憶測となるのなら、それはどんなに説得力があっても陰謀論に他ならない。

陰謀論の殆んどが、これがあるから、これを企んでいると考え決めつける憶測になる。

スノーデンの暴露した情報ですらその目的が謎となるなら、やはりその目的がはっきりせず個人的な憶測となるなら、それは暴露情報ではなく陰謀論となってしまう。

何かの秘密の会議で発表され、それを録音した人物が暴露したとしても、それが事実であるのか虚偽であるかは本人にしか解らない。虚偽ならそれ自体が陰謀になってしまう。

だから陰謀論は結局のところ、やはり陰謀論にしかならない。どんなに陰謀論とはCIAが言い広めた言い回しと訴えても、その証拠すらないなら陰謀論と呼ぶ言い回しをやめさせる理由にもならない。

絶対にこうであるはず、と考えること自体が間違ってる。それが行き過ぎれば誤認逮捕のような事も起きるし、集団になれば革命運動となり、社会的な混乱を招いてしまう。

ドナルドトランプやその崇拝者、ナショナリズム、保守右翼とされる側が、アメリカ民主党側を悪魔崇拝とレッテルを貼るのは、左翼思想とされる側を攻撃するためのレッテルでしかない。それは陰謀の暴露ではなく完全なる思想主義の対立、そのために使われているのが陰謀論プロパガンダ、マインドコントロールや洗脳になる。

だからむしろ「悪魔崇拝と思うならそう思えばいい」、開き直った対象者がそう考え行動するのは仕方がない。何を言っても通じないなら、その主張通りの人物になってやろうと反発してしまう気持ちが出てくるのも理解できる。それを少しでも行えば食いつくように陰謀論のレッテルに利用する。対象となってる人達は、本当にため息が出るだろう。

これは、もはや誰にどう思われてもいいとする気持ちでも持たないと乗り越えられない。

悪魔崇拝と言われても、左翼、マルクス主義者と言われても動じず受け入れてしまえばいい。自分が本気で平和を願い、差別意識を無くしたいと思うなら、それが悪魔崇拝、マルクス主義と言われるなら受け入れる。善悪の知恵なんか人へレッテルを貼るために利用する悪意でしかない。

その言葉以上に人を侮辱してるのが、小児性愛やアドレノクロム、カバリズムと言われるレッテル。身に覚えのない罪を責められるなら、それは魔女狩りと同じ、思想主義からなるカルト的な陰謀論を主張する人達は平然とそれを行う。

もしも自分達がそれを言われたら、を考えずに当たり前のようにインターネット上で今も主張し続けている。

その思想主義の勝利のためなら事実や虚偽など関係なくプロパガンダし相手側を貶める。道徳心として考えれば、そんなことやってはいけないこと。それはしっかりと神との約束となる十戒の中にも表現されている言葉。

その十戒すら守れていない宗教信仰者でも、そんな酷いレッテルとなる陰謀論に心酔してしまう人達がいる、それだけこの陰謀論とされる話の洗脳やマインドコントロールは激しいもの。

確かに…、医者が言っていた、専門家が言っていたとする、その数値やグラフ、統計やエビデンスなども、陰謀論で言われ行われている事と同じと言えば同じかもしれない。

データや統計などいくらでもでっち上げができる。病気の原因も、それを治すための薬も、それを売るためのプロパガンダとして作られた箔のあるデータや統計さえ広められたら信用させられる。それを疑うなと言う方も極端過ぎるし、疑い過ぎれば今までの社会常識は崩れ去り、何ひとつとして信用できない世の中になってしまう。

その社会常識とされる理論ですら、陰謀論と大差なくなってしまうケースもある。過去に信じられてきた社会常識とされるものが間違っていた、それは歴史上度々起こっている。


目に見えない何かの現象、その原因を突き止めても、それを突き止める術があると人々に信用させるのにも賛同者が必要。自分のnoteアカウントやTwitterXには、その信用となる基本の数字がない、だからあまり賛同者もいなければ信用を得られることもないと思う。

それでも、言わなければならないと思うから自分が解ることを、ここに綴ってきた。Twitter上で語り続けてきた。

しかしYouTubeは別、あれは自分が好きな音楽を中心に、独自のコンテンツを作れる楽しみのためにやっているもの。だからあそこではあまり陰謀論など語ってはいない、殆んどが音楽中心。今後もYouTubeで政治や陰謀論、政治などについて語るつもりはない。しかし宗教ではないが、神学的なものはたまには語りたい。


神とは、信じるからこそあるもので、信じない人の心には神はいない。人間を中心として考える仏教のような、グノーシス主義と似た考え方をする、ニューエイジ思想では神を信じるより自分を高めるような考え方をする。

神を信じないなら、そこにあるのは目の前に見える物質世界だけ。この世界が仮想現実と考えるなら神の体内となるこの世界を否定しているに等しい。

宇宙の一部となる我々、全ての生命は既に全てを知っている、それが解らない、理解できないと思い込んでるのは、それを表現する言葉、術を知らないだけ、表せる言葉を思いつかなかった。しかし人はそれをちゃんと表現している、神と呼ぶそれを表現する。

言葉では表せないもの、この感覚と世界を表すために沈黙をするのもその表現の1つ。感覚的なものを直接表現すれば、それは全てにおける真実であり出来事になるので、それを表現する事ができたなら、決してそれは嘘とはならない。

存在できないものを思いつくことはない。だから「神」、と呼ぶ言葉があるなら、それは確かにそこにある。神と呼ばれる、信じる対象は確かに実際に存在しうるもの。

生み出し、渡し、消費する、そしてまた生み出す三位一体のトライアングル、それが宇宙の法則となるなら、それそのものが神による秩序、この世の森羅万象全てとしてある無秩序となる始まりであり終わり。

言葉として表現できるなら、それは確かにあると言うこと。それを知るから覚り、真の目覚めとなる。


御経のように、言葉の羅列でそれらしく見繕っているもの、それも科学の難しい数式の羅列と同じで、既に知っていること、その表現方法の1つとしてある手法となる。


全ては沈黙ではない、語る言葉が世界を形作る。光や音、振動、ムービングが質量とエネルギー、時間、相対性理論そのものであり動きである。動きあるものには全てに言葉が宿る、その言葉こそが神の言葉。創造された世界における愛の循環作用、無限に繰り返される陰と陽の相互作用、三位一体となって動く過去と未来の螺旋、その全てが神である。



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