意識は心であり魂であり、言葉であり文字であり、愛は自分そのもの
自分の思想主義に属さないと敵認識、許しなき心でいつまでも憎しみ合う。そんな思想主義などどれだけ大切なものなのか、誰かを崇拝しリスペクトし熱狂して従い、それに反する敵対者を排除しようとする、そんな愚かな行いはない。なぜ自分に従わないと許せないのか、なぜ自分自身の思想主義、それを植えつけた崇拝対象者を同じく拝めと強要するのだろう。
人間の心などいつの時代も獣そのもの、何も変わらなければ進化もない。みてくれだけ見繕っても、心の進化がないなら、それは服を着た獣、ファシズム化したチンパンジーの群れとなる。
実際世の中っておかしいんだ、明らかにおかしいことがまかり通ってるし、いろいろと矛盾する、我々はその矛盾に無理矢理従わせられてる状況の中に生きている。
まず労働とするものを考えるなら、現代社会の原則8時間労働とするものはどう考えても拘束時間が長いし人間として生きる自由を奪われてると思う。
本来の人間はそんな労働なんかしない、狩りに行っても数時間で戻るし、よほど獲物がいない地域以外なら山菜採りでも必要な分だけ採れたら、それほどの労働時間はない。山歩きもせいぜい長くて3~4時間程度。
時給が安いのは長時間労働を正当化するためだし、短時間で交代シフト制にすれば労働を更にシェアできる。派遣業者にそれだけ支払えるなら企業は直接労働者にもそれだけの報酬を支払えると言うこと。そもそも派遣労働会社とする中抜き業者なんか必要ない。
それだけの内部留保を貯められるなら、労働者にもそれなりの還元はできたはず。それをやらずに企業の儲けだけを優先するなんて、人道的じゃないし道徳心もない。日本がこんな労働環境だから、まともに働きたいと思う日本人は減るのは当たり前であり、企業の人手不足は必然的に起こったもの。
人手は足りないが賃金は抑えたいとする、そんなひなまずるい考え方がまかり通ってる自体が異常な状態であり、結局派遣業者に頼り人手不足を補うなら本末転倒。
それを擁護する人達はそれらしい屁理屈とか言い訳を駆使して不満を持つ人々を黙らせようと試みてはいるが、日本の企業側がケチなのは周知の事実。そのおかしな支配の誤魔化しをしてる企業の事は、そこで働いてる人達が一番よく解ってると思う。
だから、日本だけではなく世界中の労働者はまさに労働プロパガンダによって鞭を打たれている奴隷、ゴイムとし生かされてると考えてもまったくおかしくはない。全てはプロレタリアートの上にいるブルジョワジーと、その更に上に君臨する資本家のための社会として成り立っている。
殆んどの労働は民間企業の雇用でしかなく、いつその企業が無くなるかも解らない状況下の中で人々は働かされ続ける。その不安定な雇用の中で、国営の職もない状況の社会主義である日本の憲法に、勤労の義務なんてものがあるのがそもそもおかしいし、労働の権利なんか殆んど守られてもいない。肩書きやカーストを重んじる差別主義がまかり通り正当化されている。そんな日本の労働環境の中で労働の義務なんかまともに果たせるわけがない。労働する権利も整備され守られてもいないのに労働の義務なんてものは成り立たない。労働の義務が成り立っていないのなら、当然納税する義務も果たせるわけがない。
よほどの仕事好きでないなら、長時間労働など誰もしたくないと思う。ましてや残業なんて、自分のプライベートの時間が殆んど持っいかれてしまい、まともに生活するのすら困難になるほど過酷な日々を過ごさなけらばならない。
それにしても人間とは常に上から目線で、自分が営業をかけた相手側には、迷惑そうに、こちらにとても失礼な態度をとり、追い払われる事もしばしばある。相手はその行為にこちらが傷つかないと思い込んでるのか、堂々と、当たり前のようにそういったことを行う人が確かにいる。いくらそんなことをされても、こちらも仕事でやってること、その人達が日々仕事をしてるのとまったく同じことをしてるだけ。それがなきゃ社会なんか成り立たない。
そんな心を踏みつけられるような思いをしながらでも営業を続ける人が殆んどで、そういった活動があるから世の中の仕事とするもの、それによる連鎖が成り立っている。
そしてTwitterでもYouTubeでも自分の発言に対して単純に馬鹿にしたような言葉や態度、不快な表現を投げつけてくる人もいる。もちろん営業代行などでは、少し強引な手法を行ってるようにも思え、確かにそんな営業の電話などが日々頻繁に重ねられてるとしたら、門前払いをしてしまう人々の気持ちも解らないでもない。それでも、どんな人間でも個々の心を持っているとする事は忘れてはほしくない。
ものを売りたい側と物を買う側。日本国憲法に国民とは日本国籍を有するものとする表現は無い。だからこの国に暮らし生きる外国人とされる人々、全てが国民となる。偏見的な意識と差別主義が真っ当とされるなら、日本国憲法、六法全書とは何を言ってることになるのだろうか。
それはTwitterでもYouTubeでも言えることで、自分は接客のための言葉や動画を作って投稿しているわけではないので、おかしな言葉を残される筋合いはない。
実際お金儲けのためにインターネット上で何かをしてるわけじゃないので、接客的なものは一切やらないし、インターネットでお金を稼ごうなんて全て嘘だと知ってる。
そもそも誰も洗脳する気もないし、崇拝させリスペクトさせファンや信者など集める気もない、寄付を募る気もなければ書籍を売る気もない、ネットショップ以外で何かを売ろうとする気は更々ない。だから自分にはインターネットを利用したお金集め等とは無縁。
数字を買ったり、相互フォロー等して見せかけの客引きをする気もないし、SNS、Twitterを使って無意味な数字集めに没頭する気もない。誰が話してるかより、何の話をしてるか、それを踏まえて自分がインターネット上に残す内容を読んでほしいと望んでいる。
自分が好まないのは、誰々が言っている事だから正しい、とするその意識。単純接触効果によって芽生えるリスペクト的な意識、それが洗脳一歩手前の心理作用になるので、誰も洗脳しないためには目立ってはいけないし、誰々が言っていたこと、の当事者にならない必要がある。そのために戒めを持ち、自惚れず、卑屈にならず、孤独としても屈強な心を持ちインターネット上に言葉を投げかける。
自分を見つけられた人が知ることができる話、それでかまわない。話を理解できないなら、そもそも、いくら自分の記事やブログなど読んでも何も閃かないと思う。
世の中の人はファシズム的な流れに引き込まれるが、自分はそうはならない。世界的な流れがどうだろうが関係なく、今後も差別的なもの、偏見的なものは一切を受け入れないし否定する。
自分がやるべきことはただひたすら、おかしいものはおかしいと世間に投げかけること。素直な気持ちで何一つ包み隠さず正直な思いと言葉、感じたものをそのまま表現する。
何かのカルト宗教に没頭してるわけでもないし、世界三大宗教を信仰してるわけでもない、適当な言葉の羅列、アポフェニアに陥れるための言葉を使ってるわけでもないし、スピリチュアルやニューエイジ思想を誰かから学びここで語っているわけでもない。
殆んどは思い出したこと、自分自身が。だから自分が語る神秘的なもの、神学的なものは独自の哲学と真理、この世の全ての思想主義には当てはまらない自分独自のものとなる。
遠慮せず話すなら、もっと何を話してるのか解らなくなると思う。
この世の中は左右にある古の綻び。それを弾くために心があり、本能があり、愛がある。躓いた先に見えるは小さな光へと繋がる1本の糸、その糸をたどり命の灯火はかすかな燃えカスを投げ捨て先へ進む。
全ては複雑に絡み合った糸、それをほぐし、自分に必要な道、先へと繋がる糸を探しだし導かれし光の灯火に向かいひたすら進み続ける。右に見えるは亡者の雄叫び、左に聞こえるは獣の遠吠え、それらの混沌を振り切り後ろを振り返らずにただひたすらに前へ進み行く。二匹の獣の言葉に耳を貸さず、自分を信じ、愛を信じ必要な流れへと進み流される。
見極めるは蜃気楼のごとき偽りの涙。虹のような七色の光の中に生きる生命の誕生を待ちわび、この身が朽ちるまで泣き叫ぶ。古よりありし伝説の言霊を全てとして感じ、心で触れ頭で受け渡す。全身で体現し、音や絵、言葉による表現でそれを形とする。
こういった内容、表現になってしまうので、自分が何を言ってるのか解らなくなってしまう。何を話してるのか解らないが、これは意味がある話であり、自然に感じたことを、ただ言葉として表現してるもの。
どう説明したら良いのか自分でも解らないが、これはイタコなどの感覚に似ているのかもしれない。しかし、それが現実的とか、意味がある言葉だと考えるのではなく、全ては言葉から始まる。音から始まり振動によって形作られる。この言葉を使った表現方法も絵と同じで、意味は無いように思えても、よく見れば何かの形になる。アポフェニアやパレイドリアとは違う想像と瞑想の領域の中にある、この次元の中にある思い出したこと。
言葉とは形になるもの、言葉によって物語が生まれ進化し、やがて新しい生命が生まれ、それが永遠に持続する。宇宙の記憶としてある言葉、音の記憶は全身としてある細胞、素粒子の中にあるバイオフォトン、光そのもの。こういった話をするから、変人、おかしい、カルト、洗脳しようとしてる、そう思われても仕方がない。
でもこれを話さなきゃ何を言っても政治論や陰謀論、カルト教義のような域を脱しない。
簡単には誰も知ることができない、それが真理であり覚りとなる。真に覚ることができたなら、自分の感覚、孤独としている意味も解ってくる。
この想いにある不思議な感覚を言葉の形として全力で表現する、答えを見つけるために、だから躊躇などない。語ることにより思いだし、言葉とすることによって形とする。文字は沈黙だが、それは音としてある言葉であり、その音そのものが心で我々魂、生命の光、バイオフォトンそのものでもある。
自分が綴る文字そのものが世界となり心となり、新しい生命の夜明けとなる。これは文字ではなく、自分の心そのもの、それを表現した愛でもある。
意識は心であり魂であり、言葉であり文字であり、愛は自分そのものであり、覚りも欲望も全て自分の魂そのもの。
愛を形にすれば、どんな文字でも、絵でも音楽でも、色とりどりの光となり、新しい生命を生み出すための糧となる。
人の哀しみと憂いを知り「あなたが嫌いである」、その言葉の奥にある心の音色に耳を澄まし見極め、その心に従うなら、それが実は「愛している」の言葉であることも読み取ることができる。それを知ることができるから人は以心伝心し、何も言わなくても相手の想いをくみとれる。
愛は心であり、想いであり、周波数のある沈黙である。神の心としてある愛とするもの、それが沈黙であり、神の沈黙は愛となる。