フリーメイソンのユニテリアン主義、それは三位一体である三種の神器、契約の箱、神そのものを否定する思想主義
どうして自分がここに何かを書いてるかと言うと、たった1人の人に伝えたい心からの思いがあるから。それが無いなら自分は何も書かない、YouTubeもやらない、TwitterXにも何も書きこまない。
自分は、お金なんかどうでもいい、そんなものいらない。じゃあどうやって生きるのかと思われるかもしれないが、生きるためならそんなにお金はいらないし、食べられたら生きていられる。だからお金持ちにはなりたくはない。
お金を稼ぐのは、楽しみながらで充分だと思う。命を削ってまでやることじゃない。
だからこそはっきり言えば税金なんかどうだっていい、そんなに欲しいなら全部持っていけと言う。左の頬を叩かれたら右の頬も叩けと差し出す。
パンは1個あればお腹は満たされる、そこに牛乳があればなお満たされる。その日の命の糧をいただき、心から感謝して喜び日々生きていたい。
陰謀論や政治論の偏見やレッテルなんかもう見たくない。難しい議論もしたくない、言い合いもたくさんだ。
許し合って生きていたい、誰も憎まず蔑まず皮肉らず馬鹿にせず生きていたい。
主義はいらない、属す何かは必要ない、誰かに従う必要もなく縛られる必要もない、多数に気を使うこともなく、知恵のマウントで叩かれることもなく、冷笑を浴びせられることもない。誰かを支配したり支配されたり、従わせたり従わせられたり、そこに属させたりされることもなく、今やりたいようにやり、言いたいように言い、好きなように自由に生きていたい。
教祖にもならず、教祖を拝まずに、人間に従わない、リスペクトなんかいらない、憧れもへりくだりもいらない。
誰かが笑ったら共に笑いたい、誰かが泣いたら共に泣きたい。責めたり貶めたり、そんなものいらない。
許していたい、常に。憎しみを持っても、怒りを持っても次の瞬間には許せるような、すぐに笑い合える、そんな自分としていたい。
この世界は残酷で苦しいもの、だけど幸せがたくさんある。我々は人間として生きて、他の生命を残酷に殺して食べて生きてる。だから食べることを粗末にせず大切にしないと、全ては生命の糧であり、自分のためのエネルギーになってくれるなら、全てを愛して慈しみ大切にしないといけない。
生きることは罰なんだ、幸福と引き換えにして残酷を生み出す。この世界が悪い宇宙なわけではなくて、今生きてるこの世界が残酷な世界と幸福の世界の陰と陽。
光と闇、白と黒は互いに支え合い生態系を維持している。一方的に食べられるだけじゃなくて、それは後の生み出す力となる。生み出し、渡し、消費する、そして生み出す三位一体のトライアングル。
消費すれば生み出される、だから残酷は生み出すための愛となる。何かの犠牲があって今があり、今があるから何かの犠牲がある。自分の知らない所で多くの犠牲があるから自分は今を生きる事ができる。
神は我々の今を見ている、自分の今をただ静かに見守っている。神の沈黙は愛であり、何も言わないから自分で気がつくことができる、教えてくれている、沈黙しているからこそ愛がある。
我々のその成長を見守ってくれている、ただ静かに、見守る。究極の愛は沈黙であり、沈黙しないことも愛となる。
始まりは叫び声をあげ、終わりは沈黙する、そしてまた叫び声をあげて産まれる。
13は叫びであり、33は沈黙となる。
だから自分は叫び続ける、始まりである自分は叫びであり喜びであり苦しみであり悲しみ、笑いであり怒りとなる。
この世界は残酷だからこそ幸福があり、苦しみがあるから喜びがある。暗闇があるから光明があり、漆黒の闇があるから白銀の光がある。悲痛があるから至福がある。
男がいるから女がいる。
物事に無意味なことはない、何かがあるから何かが起こる、理由があるから心が動き出す。激しい何かが始まったなら、静寂なる何かが終わりを迎える。
悲しみは始まりの終わり、喜びは終わりの始まり、何かが始まれば何かが終わる。
終わるために始まり、始まるために終わる。
全てはその繰り返しで、始まりと終わりに無意味なことなどなく、始まりも終わりも意味があるから存在する。
そうなるべくしてなった出来事は、意味があったから発生した物事。この世界に無意味なことなど何一つない、人の心の動き1つとして全てに意味がある。原因があるから作用がある、きっかけがあるから動きがある。
感情が先にあるから行動する、行動するから感情が生まれる。生み出すから消費する、消費するから生み出される。
生み出し、渡し、消費する…
全て三位一体のトライアングル。それが三種の神器、契約の箱であり、ユニテリアン主義での三位一体否定は間違っている。それはつまり友愛のフリーメイソンが間違ってると言うこと。そのグノーシスニューエイジ思想を受け入れることは、三種の神器、契約の箱、その中にある十戒を否定することになる。
それは神そのものを否定する思想主義である。