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全てがあるから全てが成り立ち、この世が形成される。この世界に無意味なことなど起こらない

自分は何でもまぜこぜにした見解、神学を語ると言われたが、それは最も重要であり、全てを否定せず全てを受け入れる精神から来るものであり、これは陰謀推理と同じ考え方であり神秘的なものと人間の哲学や科学的な答えを1つにするための神学推理となる。

「なぜ、何もないではなく何かがあるのか」この究極の哲学を追求するためのプロセスを行っているだけであり、神学とするものをスピリチュアルやニューエイジ思想、哲学と科学を交えて考えるために行ってること。

何もないならそんな見解があるわけもなく、何かがあるからその認識や考え方、教えのようなものがあったと確信している。

だからユダヤ教やキリスト教、イスラム教や仏教、他宗教、ニューエイジやスピリチュアル、哲学において全てを否定しているわけではなく、その中から信憑性のあるものを選び出して1つに纏めようとしている。これはおそらくフリーメイソンの行っている事に近いのかもしれない、解らない物事を理解するためには1つの概念だけでは見えない部分があるので、ユダヤ教の旧約聖書、キリスト教の新約聖書、仏教やスピリチュアル、ニューエイジや哲学等、全てのものから答えを導き出すために行ってること。

陰謀論を推理するのと同じで神学を推理している。そのために一番重要なのが感覚的なもの、自然現象の中でもっとも神秘的な心の動き、本能として備わる愛と覚りと欲望、これを重点的にして考え深く思慮してきた。

旧約聖書だけでは解らないこと、新約聖書だけでも解らない、イスラム教や仏教でも悟れない何かのために、全てを結びつけるために全てから厳選して信憑性のある物事を繋げて考えている。これはチャンポンしているわけではなく、壮大なパズルのピースを組み立てようとしているのと同じで、歴史上誰もなし得なかった巨大なキャンバスの完成のために思考し推理する。

こんなこと1人の力ではとても無理だとは思う、自分自身のパズルとなる、十戒の石板が揃わなければ、とてもそんなこと実現、達成するのは不可能だと思う。数字は有限ではなく無限であり、最小ミクロは最大マクロと交わり、どちらに向かっても結局は0となるのだから限界がない。そんなもの1人で組み立てようなど、無謀にも程がある。

それでも「なぜ、何も無いではなく何かがあるのか」、その人類最大の哲学、謎となるもの、その答えを見つけるためには、その道を辿るしか術がない。そのために悟りどころか、覚りぐらいは持っていなければ、とてもその謎を解くなど不可能。


自分は宗教をやりたいわけでもないし、お金を稼ぎたくて考えてるわけじゃないので、とにかくその謎を追求するために日々思考し考えている。それを何よりも重要としているので、数字などにはこだわらない。ここに書き記す意味も、自分の見解から、別な誰かが新たなる何かを導き出せるかもしれないと思うから。だから全ての生命、人類は既に全てを知っていると言った。それを独自に思い出してもらうために、その誰かの見解によって新たなる答えのヒント、パズルのピースを得られかもしれないと思うから。


しかし最も重要なのが「あなたに足りない所はわたしが補い、わたしに足りない所はあなたが補う」、とする二枚に割れた十戒の石板による思考作り、国造りとも言う。


自分の片割れ、それが無ければ何も始まらないし、片割れの自分だけではこれ以上の見解を導き出すのも難しい。

自分が知りたいことは「なぜ、何も無いではなく何かがあるのか」、それであり、どんな哲学よりも興味を持ったのがその言葉だった。数年前のある日、インターネット上でその言葉を見て、自分が一番知りたかったことは、これだったんだと気がついた。

それから考えた、なぜ、何故なんだ、それが基本となり今の自分がいる。


まるで子供のように「ねぇ何で?」、その何で何で星人のように答えを求め続けてきた。

なぜ宗教があるのか、なせ哲学するのか、なぜスピリチュアルやニューエイジ思想があるのか、なぜ政治があるか、なぜ陰謀論があるのか、陰謀論とは何なのか、何のために使われているものなのか、そうやって独自に陰謀論を追求し、その謎を解き明かそうと思い、陰謀論を推理する、陰謀推理を行ってきた。

だから、世界中でおそらく、陰謀論自体を推理して暴こうとしているのは、自分ぐらいだと思うし、そう豪語する。陰謀論を否定するために答えを探しているわけではなく、陰謀論の真実を追求するために推理する。多くの人は陰謀がある証拠や証明、陰謀がない証拠や証明を示したがるが自分はそれらの考え方とは全く違う。

陰謀論とは何なのか、それが使われる目的や意味と、何が騙しで何が本当のことかを見極めるために深く考える。それに必ず関係する神学がとても重要で、陰謀論の答えを探すためには世界中の全ての神学を考える必要もある、だから全てまぜこぜにして滅茶苦茶な見解をしているように見えるかもしれないが、これは自分にとってとても重要で必要なこと。決して福音、キリスト教だけでは見えないものがある、ユダヤ教の教え、タルムード等だけでは見えないもの、イスラム教や仏教、他宗教の悟りだけではわかり得ないもの、それらを知りたいので様々なものから答えを探してはパズルのピースにする。

もちろん、そこに思想主義や政治論も入るし、社会経済についても考えなきゃいけない部分もある。

物事には必ず意味がある、その意味を見つけ出し、世界中に散らばったパズルのピースをはめながら、自分は日々思考する。


これは、自分自身がエメラルドタブレットに記された三倍偉大なヘルメストリスメギストスになろうとしている、そう言われたらそうなるのかもしれない。愛と覚りと欲望、この3つの力に拘るのは、それが最も自分自身が手に入れたいものだからなのかもしれない。




自分としては、この3つの力を制した者が、それを悪用するなど考えられないと思う。なぜなら、それは悪意が発生する欲望だけの力だけではなく、愛と覚り、その道徳心の力が強まるから、悪用しようとしてもできるわけがない、そう考える。

その3つがあるからバランスがとれるわけであり、その内のどれが欠けても完全には届かないし究極の神学は完成しない。

愛が覚りを制御し覚りが欲望を抑え、欲望が愛を生み出す三つ巴の流れ。これこそが究極なる自然法、神による絶対なる自由なる流れ、秩序となる無秩序、アナーキー。


その先には、最高の自由が待っている。


自分はそう確信する。

音楽も、既に知っていることを思い出すためには、かなり役に立つ。脳と心に響く歌や音楽こそ感覚的なものが多く込められてる、だからこそそれぞれのアーティストが作る歌や音楽そのものに神秘的なもの、不思議なもの、スピリチュアル的なもの、ニューエイジ的なもの、宗教的な感覚がある。だから自然の音に耳を傾けるのも大変重要なことで、ヨガや瞑想、断食や沈黙も、全ての行いは自然の中にある教え、叡智から授かったもの。

是非生命の音、自然の音や音楽をもっと感覚的なものを感じながら聴いてみてほしい。

最も重要なのは全てを生み出す愛の本能、それを踏まえて物事を考えることはとても重要なこと。知りたくても解らなかったこと、探し続けた答えは必ず見つかる。始まりであり終わりの全てとしてある神、我々はその体内にいる細胞、素粒子の1つ。だからこそ既に全てを知っている、誰もが思い出せる、必ず。既に全てを知っている我々には不可能な事はない。最後の自由は究極なる自由へと導かれる、そのために上へ行く、下ではない、上へ上へと登り行く。

この命燃え尽きる最後の瞬間まで、腕が引きちぎれても、足を失っても、這いつくばっても、ただひたすら前へ進み、決して後ろを振り返らず光へと突き進む。上へ上へと進み行き、やがて、光との融合を果たす。







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