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意識(魂)と言われるものは物質ではない、未知なる何か

自分は食事などは殆んど1日1食、お腹が空いたら食べ、1日何食など決めてないし、何時に食べると言う決まりもない。だから時間に縛られることはない。仕事も同じで、朝何時に出勤し、何時に休憩し何時に終わるなどのような事もなく、時間に縛られるようなものは好まない。電話も時計も持ち歩かない、それを持てば時間に縛られる。

眠れない夜はとことんまで起きてるし、それが一番良くて、たとえ仕事があったとしても、無理矢理寝ることもなくて、自然に眠たくなれば寝る、それが自然であり当たり前の生命の流れ。

自分が得た感覚がどういったものなのか、改めて書いてみようと思う。


まず愛と覚りと欲望とは、三種の神器の概念そのものであり、それは契約の箱と同じ意味がある3つの三位一体の法則としてあるもの。三位一体では父と子と精霊だが、それも父が子を精霊に渡し消費する意味ともなり、太陽が月へと渡し地球で消費する生命の源を渡す無限サイクルの流れ。

地球は回転し、我々は昼と夜を交互に体現し時間を感じ消費して生きている。アインシュタインの相対性理論として考えるなら、同じ質量の時間で同じ回転の中を生きている我々は同じ年齢の重ね方をし、同じだけの時を刻んでいる。それが陰と陽の無限回転。



重力波の最大としてあるブラックホールが宇宙の最大とするなら、その最大マクロこそが宇宙の果てとなり、最大マクロはやがて最小ミクロへと到達する。ミクロはマクロの最大質量でもあり、マクロはミクロの最大質量の消費でもある。

自分の中にある感覚、イメージを言葉にするためには、それを伝えるための表現方法が必要で、その言葉やイメージによって表現し、自分が覚った感覚とはどういったものなのかを説明している。

これは宇宙における難しい物理学のような話ではなく、感覚的なものを中心にし表現している例え話のようなもの。


宇宙の果ては自分の中にある。最大マクロの質量としてあるブラックホールの先にあるものとは、自分の中にある最小ミクロであり、紐理論よりも更に小さく、ニュートリノよりも更にミクロな領域であり、その果てが自分となり、更に果てが宇宙、それを越えた先にあるのがブラックホールの最大マクロとなる質量と言う意味で話している。


素粒子ともならず、ニュートリノでもない魂は目に見えない心、その意識としてあるものが最小ミクロの前兆線にあるもので、その更に奥にあるのが最大マクロとしてある最大質量。だから目に見えない世界は0の領域となり、0は最小ミクロと最大マクロが交わる神の領域。目に見えないから0であり、それは確かにあるが見ることはできないし聞くこともできない。

過去は未来であり未来は過去、昼は夜となり夜は昼となる。光は闇となり闇は光となる。最大マクロは最小ミクロでもある。

我々が認識できない始まりから終わりまでの全ての領域の先、絶対的なる領域0の地点、次元の先に神はいる。我々は神の一部であり、神の細胞、素粒子の1つとしてここにいる。我々自身が紐理論にある1本の紐と言うこと。無意味な存在などないし、全ては必然であり我々自身が必要な時空間の中にある相対性理論の質量そのものになる。

人は宇宙の一部なので既に全てを知っている、それが解らないように思うのは、それを表現する術、方法や言葉を知らない、思いつかないから。もしも生まれたての赤ん坊が言葉を話せたら、お腹が空いたら「お腹が空いた」と言葉で親に伝える事ができる。なぜならその本能的感覚は既に知っているので、それを伝えるために泣く行為そのものが最初の始まりの言葉となる。それが宇宙のマトリックス図、ルドルフシュタイナーの言い方を借りればアカシックレコードに残されている全ての記憶。

動植物の行動、人の動きや言動などの流れは脳内シナプスの伝達運動のような流れを持ち、全てにおける自然発生の行動原理でもあり、それは本能とも言える見えない何かによる作用となる。


なぜこの意識と言われるものは物質ではないのか、それは振動や波動、電磁波とも違い素粒子とも言えない未知なる何か。何処から来たのかも解らない最大の神秘としてある謎なもの、それが我々が持つ意識、魂と呼ばれる何か。

目は見えずとも、耳が聞こえなくても意識とするものはそこにあり続ける。脳を半分損傷しても自我があり、頭と体を切り離されても自分とする意識は両方にある。頭を切られても18ヶ月もの間生きていた首なし鶏マイク、と言う実際にあった鶏の話がある。

この意識とするものは頭にだけあるわけでもなく、身体にだけあるわけでもない、だから自分の全てとしてある魂としての意識とする昔からの表現は間違ってなどいない。それが事実とするなら確かに天の国もあるし、地獄も間違いなく実在すると言う事になる。

仏教で言われる仏となる、それはユダヤ教やキリスト教で言われる天の国へ行く事。この世に未練を残さない、だから仏となり魂として残り留まる場所にあり続ける。未練があれば生まれ変わる生命の魂としてこの世に再度生まれ行く命となる。全ての宗教、思想主義において共通して言えることは、形式、内容は違えど汚れた魂、意識を罰するための概念となる、地獄のような認識は必ずある。


古来から無意識的に人間が行ってきた事は、見えない次元、未知なる領域の世界にある出来事の模倣のようなものなので、罪人を罰するのと同じ現象は別な次元の中にもある普遍的なるものとなる。我々が今生きる世界よりも上となる世界に行けば、必ずその罪とするものを罰する掟のような自然的な法則が発生するのは必然とされるもの。

その地から天、上から下、下から上へかけ上がり昇る過程が3つの力を得る、覚るための法則であり、それが三種の神器、3つの力を得た最強の心、エメラルドタブレットに残された教え、三倍偉大なヘルメストリスメギストス、3つの力を制したものは天へと登りやがて天使となる。

自由、平等、博愛のトリコロール。博愛は無償の愛、生み出す力としてある始まりであり終わりの神としてあるイエスキリスト。その愛を渡すのが自由なる覚り、全てから目を覚まし無常を受け入れ流れに身を任せる、太極図の流れをもたらすのは覚りであり自由なる天秤のバランスを保つ釈迦仏陀。平等とは欲する心、サトゥルヌスの欲望であり、全ての生命、人々にある食欲、色欲、金銭欲、物欲の平等。平等に博愛を渡すのが自由であり、自由に渡すのが博愛、平等は博愛になる。

この三つの力を制した者が、この世の全てを制御する力を持つヘルメストリスメギストスとなれる者。

欲望を得たなら愛を会得しなければならない、愛を会得したなら覚りを会得し欲望を制御する。生み出し、渡し、消費する、この3つの流れ、三すくみ、三つ巴の流れを完璧にコントロールできるようになれば、その人は最強の心、不動なる心、沈黙の天秤となる。ゲームのタイトルで例えるなら、キングダムハーツを持つ者となれる。

深き愛情で道徳心を持ち、その道徳心により欲望を生み出す愛へと変換する。欲望は愛の質量となり、愛はエネルギーの解放として覚りにより欲望へと渡される。3つの力が互いを補い合う「あなたに足りない所はわたしが補い、わたしに足りない所はあなたが補う」
キリスト教に転向したスピリチュアリスト、ドリーンバーチュー、その人物が天使による啓示を受けた感覚、ツインレイ、それが契約の箱にある2つに割れた十戒の石板。その東西の石板が1つになった時、三種の神器、契約の箱の中身は全て揃う。

東西のゴクマゴクは悔い改め1つとなり、やがてその二極は世界に光をもたらすメシアとなる。善は悪になり悪は善になり悔い改める。右の翼があるから左の翼がある、互いの動きがあるから鳥は空を飛べる、片翼しか無ければ地を這いずるだけの獣、蛇に成り下がるだけ。



3つの力を制した最強の心を持つ者、それだけの人物がもしも国を支配できる者だったなら、世界を支配する力を持つ者ならば、この世界が欲望にまみれた不道徳で不純が蔓延するソドムとゴモラにはならなかった。善悪の知恵を使う二極の獣、ゴクマゴクの支配下にされる事はなかった。

その二極の獣は自分の中にもいる。ディープステートは自分の心の中にいる。



この自分の感覚を教えたい、だから自分はひたすらここに文章を綴り続けている。誰もが最強の心を手に入れる事ができるよう、願いながら。









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