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虐待を受けた人が、必ずしもいずれ虐待するとは限らない 〜『レ・ミゼラブル』ヴィクトール・ユゴーの描く人々〜

虐待を受けてきたという自覚のある人は、少なからず、こんな不安があるかもしれません。

● 虐待は連鎖する。

● いずれ、自分がやられたことを自分の子供にやり返す時がくるかもしれない。

そんな言葉が呪縛となり、人生を制限してしまうとしたらとても残念なことだと思うのです。



『識者の眼』より抜粋

【識者の眼】「子ども虐待の世代間連鎖を断ち切る」小橋孝介
No.5024 (2020年08月08日発行) P.62
小橋孝介 (松戸市立総合医療センター小児科副部長)

子ども虐待は世代を超えて親から子へ連鎖(世代間連鎖)する事は古くから様々な研究で報告されている。親の被虐待歴は子ども虐待の重大なリスク因子であり、被虐待歴のある親の3人に1人は子どもを虐待すると報告されている。ここで大切なのは、被虐待歴のある親のうち3人に2人は世代間連鎖していないことだ。Egelandら1)の長期予後研究によると、そこには①虐待的でない大人からのサポートを子ども時代に受け取ることができた体験、②時期や種類を問わず一年以上の期間の治療、③情緒的に支えになる安定した配偶者─という三つの因子があったとしている。つまり、他者から尊重され守られる体験が、子ども虐待の世代間連鎖を止める鍵となるのである。鷲山2)は「『被虐待歴が虐待を起こす』のではない、『被虐待歴のある人に周囲の地域社会が必要な支援を怠った時次世代へ虐待が引き起こされる』のである」と述べている。

(以上、一部抜粋させていただきました)

必ずしも虐待は連鎖するとは限らない。虐待しない人も大勢いると私も思います。


虐待の連鎖を断ち切れる人

確かに、虐待は連鎖するという傾向があることを理解することは大切です。そして虐待された事実や傷ついたことで受けた身体的、心理的な傷があることを自分で認めて、自らを癒す作業に取り組んでいくことは、感情を取り戻すために必要なことです。この取り組みは、傷ついた心と向き合う作業であり、とてもつらさを伴うものなので、場合によっては専門家のサポートが必要な場合もあるかもしれません。しかし、人間性の成長や成熟に伴って、虐待されたつらさを越えて、自分自身や人に対して深い優しさを示している人がいるのも事実なのです。

実際、noteにも虐待された経験を持つ方が多くおられますが、それぞれ生きづらさを越えて家庭を持たれている方もいらっしゃり、むしろ虐待とは真逆の方向へ、子供を大切に尊重しながら慈愛あふれる子育てをされているのです。

私自身、自らをサバイバー(虐待を受けながら生き抜いた人といった意味)だと理解していましたが、この経験は、虐待された経験を持つ人を理解して支援するという、福祉の仕事で生かすことができました。(ちなみに今は、私自身の捉え方も変わってきてサバイバーとは思っていません。過去の捉え方も変わるのです。)


虐待の連鎖とは?

虐待の連鎖が世代間に受け継がれるということは、親が子を殴り、子が弱い兄弟やペットを殴るなど、強い者から弱い者へ、怒りや恨みの感情を巡らせていくことです。また、先祖代々、文化として家庭の中で受け継がれるということもあります。

私の場合は子どもがいないので分かりませんが、ペットにはできる限り幸せに暮らしてほしいと思い、大切に愛情込めて育ててきましたし、これからもそうしたいです。

しかし、私の幼少期を振り返ると、親からしつけと言ってぶたれたことで感情的に人をぶつことを学んでしまい、妹や弟やペットをぶつ、といった行動をとっていたこともありました。


知識とサポートが虐待を食い止める鍵

そんな私は生きづらさを抱えながらも、成長する過程で大学の通信教育を受け、教育学部を選択したことで心理学や児童心理学、教育学などを学びました。知識を得る喜びや、書籍から色んな人生を学ぶことができたことは、私自身の心の目を開かせ、虐待を連鎖させずに自分の代でくい止める要因になっていると思います。大切なのは、適切な知識と率直に語り合える仲間や場が必要なことです。

世間を騒がす虐待事件や、親子の悲惨な事件の報道について、講演や書物から学んでみると、その家庭内に文化として虐待が綿々と連鎖していたり、家庭の閉鎖した中で見えない暴力があるということも知りました。

でも、実際私の周りには、虐待の傷を抱えながらも生きづらさを克服しながら、経験を糧として、虐待とは真逆の行動である人権を尊重する人間愛への原動力に変えている人が大勢いることを伝えたいのです。

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『レ・ミゼラブル』虐げられた人々

私の好きな小説に、ヴィクトール・ユゴーの『レ・ミゼラブル』があります。日本語訳すると〝虐げられた人々〟という意味で、物語はフランス革命の時代における人々の生き様が描かれています。人間臭さや醜さをムカつくまでに浮き彫りにしたかと思うと、崇高なまでの純粋さや無垢な魂、無知による悲劇などを、巧みに表現されています。あまりに劇的に描かれ過ぎてちょっと現実感はないよな…、小説だしな…、と思いつつも、虐待の心理や心の葛藤を緻密に描写して、人間の光と闇を描くコントラストに私はとても惹かれるのです。

ジャン・ヴァルジャン 魂の成長

主人公のジャン・ヴァルジャンは、枝切り人夫として真面目に働けど働けど、甥や姪といった同居する子供たちの飢えを満たしてやる事が出来ずに、ついパンを一つ盗んだ為に長く牢屋に入れられてしまった。そして子供達が心配で何度も脱獄したために刑期が延長され、ついに刑期を終えた時には初老になっていた。

徒刑場で学んだ知識と、入獄中の積立金を持って娑婆世界を生きる事になったジャン・ヴァルジャンは、出獄してから初めてとても親切な司教さんと出会います。今まで味わった事のない人間として尊重された待遇と信頼を受けて心から感動する。しかし、その恩ある司教から銀の燭台を盗んで逃げ出すという行いをしてしまうのです。それから彼は、すでに学んできた叡智でもって自分のした行為を振り返り、司教の無償の愛を裏切ってしまったことを大いに恥じて、自身を戒める物として銀の燭台を大切にしながら生き続けるのです。


負の感情を、大いなる正の感情へと昇華させる

ジャン・ヴァルジャンはのちに、富と名誉を得る立場になりながらも、誘惑に負けずに、苦しみや怒りなどの個人的な感情を叡智でもって燃やし、人々の繁栄や生命を守る方向へと、自らエネルギーを向けていったのです。

物語は長いのでこの辺にしておきますが、私がここで伝えたいのは、ジャン・ヴァルジャンが葛藤しながらも崇高な人生を生き抜いた姿を通して、ヴィクトール・ユゴーが伝えたかったこと、それは苦しみや怒りなどの負の感情も、大いなる目的に燃える大感情へと昇華できることを示唆しているのだと思うのです。

陽気な哲学者 ガヴローシュ少年

もう一人紹介したいのは、レ・ミゼラブルの中で描かれている人物で私が一番好きな、極悪非道の居酒屋亭主テナルディエの末っ子、ガヴローシュ少年です。

彼は両親や姉たちから愛されず、構ってもらえないどころか忘れられていた被虐待児です。学校に通うことはなかったけれど、とても賢い哲学者のように描かれており、彼はどんなに大人たちや世間から虐げられても逞しく笑い飛ばし、陽気に歌いながら生きるストリートチルドレンなのです。

ある公園のモニュメントの中で暮らしていたとき、迷子の男の子を見つけ、弟分として育てていくガヴローシュ。まるでお父さんのような気持ちで幼い子を助け、飢えと闘いながら生き抜くための知恵を教えていくのです、朗らかに!

このガヴローシュ少年の魂に触れると、私は自身の卑屈な根性を叩き直せるのです。


私の魂を浄化する本

レ・ミゼラブルに描かれる登場人物が、それぞれに懸命に生きる姿に心を揺さぶられるとき、私は涙し、魂が浄化される気がするし、今を後悔なく懸命に生きようという力がみなぎってくるのです。

ヴィクトール・ユゴーの人間描写の高貴さ、えぐさに惹かれる一人の感想でした。この物語はまた、正しさとは何か、人間の生き方を問いかけてくる名著です。全5巻の長編小説ですが、まだお読みでない方はぜひおススメします。映画やミュージカルもありますよ。

長文をお読みくださり、本当に本当にありがとうございます✨感謝しております☺️





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