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小説【お立ち寄り時間1分】クローゼットは故意な残り香
雪が降っている。
いや、雪が猛烈に暴れている。まるでこれまでの鬱憤を一気に発散するかのように。ぎゃふん、ぎゃふん、と。
「昨日、引っ越しできてよかったな…」
季節はずれの引っ越しになったのは、配管が凍結して、水漏れしてしまったからだった。幸いにも、大家さんが所有している他のアパートに空きがあったので、そこに引っ越すこととなった。
立地も良く、築浅で、それも2階の角部屋、日当たりも良好。
それでも、初めて一人暮らしをした前の部屋には、好条件を覆すほどの思い出がたくさんしみ込んでいた。
家族が恋しくてホームシックになった夜。
一晩中騒いで、こっぴどく叱られた二日酔いの朝。
残業続きで、こたつで寝落ちした日。
初めてのボーナスで新調した冷蔵庫。
憧れのひとと一緒に座ったソファ。
どれもこれも、くだらなくてありきたりだけど、辛い時に心の支えになった。何にも代えることができない、我が子みたいな思い出だ。
「これでおしまい」
真新しいクローゼットを開けて、幾分か減らした衣服をしまおうとすると、小さな小瓶が落ちているのに気が付いた。
「香水だ…」
中身はもうほとんど入っていなかった。小指ほどのふたを開けると、微かに残り香が鼻先をくすぐった。
「前の人の忘れもの…かな?」
どこかで見つけたことがある香りだな、と記憶を辿っていると、まだ聞き慣れないチャイムの音が私の肩にそっと触れた。
「あれ…末永さん…?」
「…藤?」
思わぬ思い出の訪問に、つま先から一気に記憶が波立つ。
体温が上がる。
頬が熱い。
「驚いたな」
「お久しぶりです」
始まることも、終わることもなかった。
ただの憧れ、それだけだった。
「これ、大家さんから預かってた」
「ありがとうございます」
末永さんから手渡された大きめの紙袋を覗くと、生蕎麦がお行儀よく並んでいた。多めの引っ越し蕎麦だ。
「食べきれるかな……あっ」
「ん?」
咄嗟に思いつくものの、本音は、蓋に腰かけたまま出てこようとしない。片付けた本人にも中身は透き通っているのに、ご丁寧にリボンを付けて、どこか他人事を気取っている。
「……一緒に食べる?」
「えっ?」
「藤がよければ」
あの時と変わっていない。
末永さんは、いつも欲しい言葉をくれる。適切な味付けをした、最上級に美味しいものを。
「もちろんです!」
「それじゃあ、10分後に」
急いで、とびきりおしゃれで、上等な服を引っ張り出す。袖を通しかけて、気合入れすぎかな…と考え直し、せめて髪ぐらいは…と洗面所へ向かう。鏡に映った私は、どこか子どもみたいで、いつもよりも柔らかい表情をしていた。
折角なら…と、ひと月前に購入して、まだ日の目を見ていないルージュを手に取る。胸の高鳴りとともに、見慣れないくちびるが、微笑ましそうに口角を上げる。
「よし」
雑にまとめた髪をほどく。
香りがついていたことに、不意に気がつく。
クローゼットで手に取った、あなたの残り香が。