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小説【お立ち寄り時間1分】めくるめくパン屋さん


眼の奥が痛い。
チカチカとかズキズキとかそういった類を超えている。ティースプーンでえぐられているみたいな、そんな感じだ。こんなに日が暮れるとは思っていなかった。

本来なら昼過ぎに帰って、蕎麦と日本酒で、自分お疲れ様会を開催する予定だったのだ。それがどうなったら、こんな時間に。打合せと打ち合わせの間に行った動物園では、妙にチンパンジーに懐かれた。

「シンパシー、感じてるんですかね」

一緒に行った後輩から、上手いこと言ったと横目で小ばかにされた。ライオンの檻の中に、置き去りにしてやろうかと本気で思った。

取引先では、21股されていた話を聞いた。
実は、この話を聞くのは3回目だった。つまり、新人の担当者を過去3人連れてきた、ということになる。初めて耳にする後輩は、絵に描いたような反応をしていた。人の不幸は蜜の味、非常に楽しそうだった。こいつは、早々に会社を辞めなそうだなと安堵した。

3度目のオチの分かる話を『初めて』のリアクションで聞くのは、些か骨が折れる作業だった。でも、後輩が、早々に会社を辞めるようなタイプじゃないことが分かったので、それだけでも、とても良い時間だったと思いたい。

反省会を中断するように、腹がぐーっと盛大に鳴った。そう言えば、昼過ぎから水しか飲んでいないことに気が付いた。

「あんなところにお店あった…?」

車を走らせていると、見慣れない看板が目に入った。控えめな朱色の縁取りに白い文字。クロワッサンの可愛らしいイラストも付いていた。どうやらパン屋さんらしい。

強烈な空腹に抗えず、ほぼ無意識のうちにウインカーを出す。
カチカチカチと小粋な音が車内にこだまする。車を停めて、小走りで店内に入ると心地の良い声が聞こえた。扉から顔を出した陽だまりみたいな暖かさに、硬直していた体がじんわりとほぐされていく。

「あったかい…」
「いらっしゃいませ」
「あ、こんばんは」

弾むような心地の良い声につられて顔を上げると、声の主と目があった。茶色の瞳に、柔らかそうなまつげが影を作っている。初恋の人に似ていた。

「ご注文はいかがなさいますか?」
「えっと…」
「メニューは、こちらになります」

淡いわたあめみたいな思い出を、まぜこぜに並べそうになりながら、メニューを受け取る。表紙は、幼い頃にボロボロになるまで読んだ絵本だった。メニューを開くと、そこには、昔から好きだったパンやスープ、飲み物などが行儀よく手招きをしていた。あまりの偶然に、不覚にも声がうわずる。

「うわ~、素敵すぎる」
「気に入って頂けたようで何よりです」
「どうしよう、選べないです…」
「では、こちらのおまかせメニューでいかがでしょう?」

メニューの一番下に、控えめな大きさで『店長のおすすめ』があった。パンとスープのセットで、追加料金でコーヒーも付けることができるようだった。

「では、こちらでお願いします!」
「かしこまりました」
「はい!」

花が咲いたような声につられて、こちらも思わず元気に返事を返してしまっていた。恥ずかしさで苦笑いをすると、キャンドルの淡い灯りみたいな円い笑顔があった。笑い方まで本当に似ていた。帰ったら、卒業写真を見返そうと本気で思った。

「おまたせしました」
「ありがとうございます!」

紙袋を覗きこむように開けると、そこには焼きたてのくるみパン、チョココロネ、ハムとチーズのホットサンド、そしてカップに入ったスープが行儀よく並んでいた。
紙袋からも、温かさが手にじんわりと伝わってきて、早く食べてくれ、と急かされているみたいだった。なんて幸せな空間なのだろう。

「うわ~、昔、好きでよく食べたパンです」
「気に入っていただけたようで」
「はい、また来ます!」
「また、どこかで」



次の日、またパンが食べたくなって、あのパン屋さんに向かったが、ただの空地への姿を変えていた。

「え…、どうゆうこと…?」

きつねにつままれる、とはこのような状況を指すのだろうか。何が起こったのか全く分からず、頭が文字通り真っ白になる。 

「おーい!エンストでもしたの?大丈夫?」


遠くから聞こえる声で我に返る。
声の方向を見ると、親切にも車を路肩に停めて、こちらまで降りてきてくれた。でも、エンスト以上だ。それどころではない。

「え、あ、その…」
「……あれ、池井?」
「……伊藤さん?」

不覚にも、昨日まで存在していたであろう、パン屋の君がそこにいた。卒業アルバムで確認する必要もなかった。頬が、北風に吹かれて冷たいはずなのに、なぜか熱を帯びる。

「久しぶり」
「え、あ、はい、あ、伊藤さん!」
「ん?」
「いや、何でもないです」

伊藤さんに、パン屋さんのことを聞こうとしたが、何となくやめた。あのパンの思い出は、自分だけのものにしたかった。

「いつかまた…か」
「ん?どうした?」
「あ、いえ、何でもないです」



先ほどまで強く吹いていた風が止み、雲間から光が差し込む。次にまた会えたら、必ずこう伝えるんだ。端から端まで全部ください、と。




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