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小説【お立ち寄り時間1分】左手、雫を抱いて
「ただいま」
昨日は、散々な日だった。
朝から寝坊して、慌てて着替えをしたら、タイツは伝線するし、ブーツのファスナーは壊れるし、挙句の果てに犬のフンまで。
職場に連絡すると『運が付いたね』とニタニタ寒いギャグも飛んできて、もう上司の顔も踏んずけてやろうかと思った。跡がつくぐらい。
そして、何よりも気になる。
ガラスのコップについた水垢の跡。
何度拭いても、消えない。
やな奴。
今日は、クリスマスらしい。
街中のネオンを横目に早足で駆け抜ける。自宅のソファが恋しい。まだ、昨日を引きずっていて、うまく楽しめない自分がいた。だって、イヴが散々だったんだから、本番は滅茶苦茶になるに決まっている。寄り道せずにまっすぐ家に帰ると決めていた。
「ただいま」
まるで、警察から逃げる犯人みたいに、必死で玄関を開けて、そのまま座り込んだ。つま先が、ふくらはぎが、太ももが重くて、今にも千切れそうだ。やっとの思いで、ケータイを取り出すと、やっぱりあの子からのドタキャンのメッセージが錆びれた街灯のように光っていた。
見間違いじゃなかった。
ほら、やっぱりね。
出だしでつまづくと、だいたい最後も滅茶苦茶になる。
下を向いたら、泣きそうになって、上を向いたら、首の後ろに違和感を感じた。
痛い。
ああ、今日、本当にずっと、ずっーと、下を向いてたんだ。
バカだなあ、本当。
心の水垢の跡が増えそうになって、楽しいことを考える。唯一、今日あの子と過ごせるって、それだけが楽しみだったから、なかなか浮かんでこない。このまま寝てしまおうか、と玄関でストライキを決行しようとした時、聞きたかった声が降ってきて思わず顔をあげた。
「なかなか部屋に入ってこないから、迎えにきた」
「あれ、今日ダメだって…」
「ほら、早く早く」
君に手招きをされるがまま、リビングに入ると、そこには、ずっと思い描いていた『クリスマス』が用意されていた。
「これ、ずっと食べたかったケーキ」
「うん、買ったよ」
「キッシュだ…」
「うん、作ったよ」
ジェットコースターみたいな展開に、気持ちが追いつかなくて、涙がぽろぽろと溢れる。もし、夢ならこのまま永遠に覚めなくていい。
「あえ、えっちゃん、泣かないで」
「……うん」
「元気なかったからサプライズで用意したかったの」
「……うん」
「もしかして、ドタキャン嫌だった?」
「……嫌に決まってるじゃん」
ごめんごめん、と念仏みたいに唱えながら、ぎごちなく抱きしめられる。君の鎖骨に鼻が当たって、少し痛い。君のちょっとズレたサプライズは、私の涙腺を最大値まで緩くする。
「あとね」
「うん」
「もしよかったら、今週末、結婚しない?」
「……えっ」
君の手に、小さくて愛おしいものがお行儀よく正座していた。クリスマスにプロポーズしてほしいって覚えててくれたんだ。
「……タイミング!」
「え、あ、今じゃなかった?」
「あと、逆さまになってる!」
「え、あ、本当だ、ごめん」
君がまた念仏みたいに、ごめんごめんと慌てる。私はそれを泣き笑いながら見つめる。キッチンのガラスのコップには、まだ水垢がついている。
そうだ、明日は、マグカップを買いに行こう。左手にキラキラ光る雫を抱いて、君の手を繋いで。
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