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jazzはどこへ行った……
好きな音楽のジャンルを訊かれたなら、僕は躊躇することもなく「jazz」と答えることになる。
にも係らず……何故か、最近はjazzを耳にしていない。
暇つぶしにギターの弾き語りで遊んでいることもあり、当時はどちらかと言えば小馬鹿にしていたポピュラーソングや、ロック系に耳を傾けることが多い。
現行のポップスやロックは……はっきり言って、それほど革新的な流れも窺えず、謂わば……「流行歌」というちょっと古い言い回しさながらに、「焼き直し」とか「マンネリ」に終始しているとも思える。
まあ、音楽に関して専門的な知識を有しているわけでもないので、単なる印象には過ぎないが……少なくとも「商業ペース」としては生き延び続けているようだ。
要は……それなりに時代に則して生き続けているのだろう。
それに反して「jazz」は、すでに「古典」になってしまったのだろうか?
もちろん「古典」と言っても、所謂「クラシック音楽」とはかなり様相を異にする。
楽譜を元に、再現可能な「クラシック」とは違い、「jazz」の場合は……仮にCharlie Parkerの演奏をそのまま譜面に落とし込み、忠実に演奏したとしても……たぶん「jazz」と呼べるかどうか疑わしい。
たぶん……「jazz」は譜面とは別次元の、今その時の「即興」にこそ命が宿るのだろう。
もちろん今でも、優れたジャズミュージシャンは存在するのだろうが……なんだか僕には、そこに「イノベーター」としての冒険が希薄な気がするのだ。
反面……安心して聞くことは出来そうである。なぜなら……かっての無謀なまでの実験を繰り返していたJohn ColtraneやOrnette ColemanやMiles等の演奏を、理論的に再構成し……言いかたを代えれば、一つの枠に閉じ込めてしまったように感じられるのだ。
以前、「スーパーで聞くマイルス」という拙文を綴った覚えがあるが……今ではjazzは、たんなるムード作りのBGMにしか存在価値がないのだろうか?
もう随分昔のことだが……予備校の帰り、新宿の穴蔵のようなjazz喫茶で僕はよくJohn Coltrane等の音楽に痺れものだ。
煙草の煙の充満するところ……会話も殆どなく、誰もが大音量で響くjazzに耳を傾けていたものだ。僕にして、まるで瞑想する僧侶みたいに瞑目して、聞き入った覚えがある。
そう。jazzは疑いもなく、僕を「別次元」に誘ってくれたのだ。
なぜか?
思うに、当時のjazzにも色々な流れこそあったが……その最先端はやたら尖っていて、失敗も破綻も恐れず、時には「出鱈目」と区別もつかぬ荒々しさで……シャニ厶に自由をまさぐり続けていのだろう。
確かに、実験としてのjazzは……あたかもイカロスのような命運を辿り、消え去ったのかも知れない。
そしてその形骸が、スーパーで流れ続ける。鎮魂歌のように……
いや、そんなはずはない。
そう。久しぶりら聞いたJohn Coltraneの「Ascension(神の園)」におけるイカロスの最後の足掻きの中に……僕は、閉塞した時代を突き抜けようとする、人間の叫びを確かに聞き取ったのだ。
どんな絶望の中にあっても……叫べるうちは、まだ人間でいられはずだ!
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