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面倒くさいの代償

 一日のうち、何度「めんどくせぇ」と発語するだろうか?

 とにかく「面倒くさい」ことが大嫌いな、怠け者なのだ。

 だいたい、朝起きることからして、面倒くさい。勿論、仕事がある時はイヤイヤながら起き上がるのだが、出来ることなら何時までも寝ていたいのだ。
 一度実験したことがある。
 休みの日、目覚めたのは朝の9時……とり合えずトイレに立ち、再び寝床に潜り込む。そして考える。そう。寝ることが面倒くさくなるまで寝てやろう。
 結果……次に目覚めたのが夕方の五時。さすがに、再び寝るのが面倒くさくなって、起き上がったしだいであった。

 言うまでも無く、こんな生活を送っていてはロクなことはない。本来やりたいことがあっても、充分にこなすことも出来ず……ついては「時間がない、時間がない」と狼狽えるばかりなのだ。

 確かに、「面倒くさい」ことから逃げたくて、ついより楽な道を進むと、大抵の場合、より面倒な事態にぶち当たるものだ。

 例えば、紙くずを紙くず籠に捨てたいが、立って行くのも面倒なので……ポイと放り投げる。うまく入ることもあるが、外すことの方が多い。
 結局は舌打をしつつ、立ち上って、紙くずを拾い上げることになるのだが……これ自体面倒くさいと思っているので、つい躓いて棚の上の醤油瓶を落とし……運悪く蓋が外れて、床が醤油まみれになる。やれ、大変。再び舌打をして、雑巾で始末することになる。

 これに類する事態は日常茶飯である。

 思えば、「三年寝太郎」という訓話がある。色々とバリエーションがあるようだが、最終的には勤勉になって世の為人の為になるという教訓らしい。

 しかし、いかに考えを巡らそうとも、僕が世の為人の為になるとは信じ難い。

 とは言え、「面倒くさい」を繰り返していれば、いずれ考えること自体が面倒くさくなる恐れもある。
 まあ、これも憧れの仙人の境地と開き直ることも出来そうだが……生憎と、いまだ俗気ムンムンとしあれば、これもままならない。

 ならば、なんとするか?

 馬に人参の例えもあるが、これは安直すぎる。

 要はなんのことはない。「面倒くさい」と考えること自体を「面倒くさい」と思えばいいのだ。

 先だって、ギターがどうも弾き難いので、調べてみると、やたら「弦高」が高い。ついては、サドルを削って弦高の調整をしようと思ったのだが……実はこの作業、ものすごく「面倒くさい」のだ。
 しかし、ここに至って僕は「面倒くさい」の発語を自らに禁じ、サドルを削り始めてみた。と……なんと、この単純作業が面白くなってくるのだ。

 畢竟、人生とは「面倒くさい」ものらしい。それがイヤなら死ぬしかない。しかし、死ぬことも叉、面倒なのだから……勝手に心臓が停止するまだ生きるしかない。
 生きるとは、すなわちギターのサドルを削ることにも一脈通じそうである。
 より弾きやすくもなるだろうが、お釈迦にしてしまう恐れもある。

 サドルの調整は未だ半ばだが……「面倒くさい」を「面白い」に転換してみると、生きることも少しは面白くなりそうである。

 

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銀騎士カート
貧乏人です。創作費用に充てたいので……よろしくお願いいたします。