ブリコラージュ
素人建築家である、郵便配達夫フェルディナン・シュヴァルをご存知だろうか?
拾い集めた石やガラクタを以て、世界でもマレに見る特異なる建造物を34年の歳月を費やして完成させた人物である。
特異な建造物でよく比較される人物として、バヴァリアの狂王ルドヴィヒ二世が引き合いに出されるが、こちらは莫大なカネを費やしたものの、結局は模倣の寄せ集めであったが、シュヴァルの場合は、全くの独創なのだ。
レヴィ=ストロースの「野性の思考」でお馴染の「ブリコラージュ」をふと思い出す。
「器用仕事」と訳されるらしいが、要は有り合わせの材料で、後は勘と思い付きで、ほぼ設計図なしでの組み立てのことだろう。
この対極が「エンジニアリング」……科学的知見に基づき、既存の材料を設計図通りに組み立てるわけだ。
冒頭のシュヴァルの場合はは明らかにブリコラージュであり、ルドヴィヒ二世の場合は、エンジニアリングに近いのかも知れない。
思えば、僕がガキの頃は、専らブリコラージュ的な人間だったらしい。
家には、大きなブリキ箱に入ったガラクタが溢れていたものだ。
何が入っていたこと言うと、バラバラになったプラモの残骸、分解した時計、解剖されたラジオの部品、近くの工場周辺で拾ってきた、何とも知れぬ機械の一部、ボルトやゼンマイやプラスチックの破片……玩具のハラワタ……などなどである。
僕はよく、仲の良かった友達と二人で、このガラクタから何かを作る遊びを楽しんだものだ。
友達は、既存の鉄砲の銃身を見付けると、これを元に……それなりの拳銃を作って喜んでいたが……僕はと言うと、どうもこれが気にくわなかったのだ。
そう。仮に鉄砲を作るにしても、既存の銃身は断固として使う気にはなれず、細長いビンや、平べったい鉄板を組み合わせて銃身らしき形に作るというのを好んだのだ。
ただし、出来栄えから言えば、いつも僕は負けていたと思う。
友達の作った鉄砲は、誰が見ても鉄砲に見えただろうが……僕の制作品は、言われなければ何とも判じかねる代物だったようだ。
蓋し、僕はどこかシュヴァル的な要素が強く、文章を操るようになっても、未だガキの頃の「野性の思考」そのままなのだろう。
僕が一貫してAIを嫌うのは、それが断じて「ブリコリージュ」ではなく「エンジニアリング」だと思うからだ。
AIは確かに、僕のブリキ箱以上の膨大な情報で溢れてはいるだろうが……結局は、既製品と言い換えてもいいだろう。
いかに巧みに作られたとしても、それは既存の組み合わせであって、ルドヴィヒ二世の作る城のように、ある種の驚嘆は齎すにしても、シュヴァルの独創とは程遠いと思う。
「エンジニアリング」もて作られた、現代の最先端のビルにしても、どこかが壊れたなら、即座に規格どおりの部品を組み込めば、復元は可能ながら……
……これが、シュヴァルが作ったような建造物であるならば……一度どこかが破損したならば、二度と復元は不可能に違いない。
僕は断固として、シュヴァルのような「ブリコラージュ」的小説を書きたいと思っている。
頭の中のブリキ箱が、どんなに貧弱であっても……