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掛け替えのない宝石

 小学校も、低学年の頃だと思う。近くの風呂屋が廃業して解体されるという噂を耳に、友達と現場に赴いたことがあった。

 すでに建物の解体は完了し、後には瓦礫が散乱するのみ。それでも、僕達はいさんで中に踏み込んだものだ。期待に胸を膨らませて……

 何のことは無い。僕達の目当ては、砕け散ったタイルの破片であった。風呂場に敷き詰められていた頃は、たぶんそれを宝の山とは全く認識さえしていなかったはずが、一端廃虚の瓦礫となると……そこはまさしくお宝ハンターの出番なのである。
 
 昨今の子供たちのことは知らないが、僕が幼かった時代には、大人が運用する経済学とは世界の違う、謂わば「子供の経済学」というやつが存在したものだ。
 そう。世間からゴミと遺棄された物や、無価値、不必要と断定されたものにこそ、本当の秘宝が隠されていると信じていたのだ。

 町工場の近くで拾ったブラスチックの破片……薄い円板状の、お弾きほどの大きさの代物である。これを学校の図書室あたりのスベスベした机の上で弾くと、とんでもなくスムーズな動きを見せてくれるのだ。あとは工夫次第で、遊びのバリエーションは無限に広がったもの……

 電柱脇などで古いラジオが遺棄されているのを見かけると、もう堪らない。近くの石ころを工具として、スピーカーに付属している磁石を抜き取るのだ。このずんぐりとした円筒形の磁石はかなり強力で、僕のおもちゃ箱の主役の一つでもあった。

 時には、壊れた目覚まし時計なんかが、つい捨てられてあるのを見つけることもあった。これはさすがに石ころでは分解出来ず、家に持ち帰り、ドライバーやペンチで解体する。各種歯車はコマとしては魅力的であり、特に目指していたのは心臓部分の小さな円盤型のやつで、その精度たるや抜群、一度回すと永遠の回転をも期待させたほどであった。

 もちろん僕だって、世間で通用する商品価値のある玩具もそこそこ持ってはいたが、ほとんど遊び捨てたといったふぜいで、心底愛着を覚えた奴は皆無と記憶している。

 確かに、子供時代には大人の価値観とは隔絶した「夢の価値観」というものが確固として存在していたように思う。

 しかし、成長するに従って人間は「子供の経済学」を捨て、「大人の経済学」への移行を余儀なくされてしまう。それが社会の、残酷な掟なのだ。

 雑誌で見た珍しい切手を、ハサミで切り抜いただけのもの……子供にとっては大切なコレクションであっても、いい大人がこれをオークションに出品したら、てっきり詐欺罪で御用の運命だろう。

 すっかりと大人になった自分の身の回りを改めて見回してみると、已んぬる哉……そこには価値を宿命づけられた「商品」しか存在しないことに愕然とする。
 パソコン、カメラ、高級ナイフ、モンブランの万年筆、ギター、書物、アクセサリー、……

 そんな僕だか、たった一つ……商品たりえない、無価値な、それでいて、掛け替えのない宝物が一つある。
 掌に納まるほどの、石ころだ。別に美しくもなく、変わった形状でもない。どこにでも転がっている、ガラクタ以下の路傍の小石である。

 なぜ、これが宝物なのか。ちょっと照れるが白状しよう。

 僕が二十歳のころ、永遠に失ってしまった愛する少女の家の近くで拾ったものである。彼女の足が、もしかしたら踏み締めたかも知れないと……それだけの理由で、たぶん僕にとっては死ぬまで掛け替えのない「宝石」で有り続けるはずだ……

貧乏人です。創作費用に充てたいので……よろしくお願いいたします。