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ブラックコーデ

 caféのカウンターでコーヒーを啜っていた時、馴染のオーナーがつい声を掛けてきて、

「カートさんって、いつもブラックコーデなんですね」

 ファッョンなど二の次と思っていた身としては、些か面食らったのだが……確かに、身に付けているのは頭の先からつま先まで「黒」一色が基本であった。

 その時のファッションと言えば、「黒」のマウンテンパーカー、これは若干脱色気味のやつだが、下はやはり「黒」のハーフジップ、ストールも「黒」……帽子のキャスケットも「黒」、伊達眼鏡のフレームも「黒」……ボトムも「黒」のジーンズ、靴下も「黒」、スニーカーも「黒」……。おまけとして、財布も黒(^O^)
 あと、差し色として、原色気味の色の入った布のベルトを垂らしていたのと……ワレットチェーンがせいぜいのアクセントであった。

 「黒」を果たして「色」と呼べるかは異論がありそうだが……昔から、確かに「黒」は好きな色で……身に付けるものを選ぶ時は、まず黒一択が基本だった。
 ちなみに、下着のパンツも「黒」である。

 夏でも、本当は「黒」のTシャツで過したいのだが……いかんせん暑くて、この時期ばかりは「白」など、少しは涼しげな色を選ぶのだが、それ以外はやはり「黒」が主役である。

 オーナーとの話はそれ以上展開もしなかったが……ふと、思ったことに、

  ……俺って「色」が嫌いなのだろうか?

 思えば、中学に上がると同時に美術部に所属し、将来は絵描きをと憧れていたのだが……いかんせん、色彩感覚が最悪であった。
 冬の景色を描かされても、日だまりの温かさに影響されて、ツイ暖色系の色を使って季節感を外したり……真夏に、涼しさを夢見て寒色系の風景にしたりという有り様であった。

 当初は油絵を描いていたのだが……高望みするタチも手伝って、「ニュートン」や「ルフラン」なんぞの絵の具を買いたくても手が出ず、結局……大学に上がる頃から……安価な「アクリル絵の具」に落ち着いた。

 ま、僕の技術不足なのだろうが……アクリルと言う奴、油絵の具と違って、変に鮮やか過ぎて、渋い感じがなかなか出し難い。
 そこで考えたのが……油絵の古典技法である「グリザイユ」である。
 これは何にかというと、色を全て排し、黒と白の階調だけで……言ってみれば白黒写真のように描く技法である。

 取りあえずこの「グリザイユ」で仕上げた後……「グラッシー」と言って、樹脂で薄く溶いた色味を重ねてゆくのである。

 が……結局は挫折してしまったのだ。基本を欠いたデッサン力の祟りだろう……陰影を付けたつもりが……「グラッシー」を重ねてみると……なんと「カゲ」が「汚れ」に見えてしまうのだ。

 徒し事さておき……後年、「色彩」の世界である「絵画」から、「モノクローム」の世界である「小説」に拠り所を見付けることになるのだが…

 さて……なぜ「小説」が「モノクローム」なのかと言うと……世に「色眼鏡で見る」という言い種があるとおり、この思い込みの「グラッシー」を排除してこそ、その底の本質が見えるのだはないかと考えたからである。

 そうは言っても、世の中は「色彩」に溢れている。三十年前、十年前……それぞれの「色」があり……そして今現在は、それなりの「色」で覆い尽くされているようだ。

 ただし……「色」というのは単なる「色彩」だけではないだろう。
 「顔色」という言葉がある。何も顔が赤になったり緑になったりするわけではない。

 事程左様に、人の表情のみならず、政治から経済まで……我々は時代の「色」に染められているのかも知れない。

 それらが一見、「幸せ色」に見えたとしても……一皮剥ぐ……要するに「グリザイユ」の世界に還元したとき……「笑顔」という色は、実は「不安」という土台に重ねられた作為の「グラッシー」だったと気づかされることもありそうである。

 caféを後にチャリを走らせながら……ブラックコーデを意識してしまったせいだろうか……あたりの景色がモノクロの「グリザイユ」の世界に見えてしまった。

 ふと見上げる、真新しい豪勢な「タワーマンション」が……僕のモノクロの視界には……新式の「監獄」に見えてしまったのだが……

 

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銀騎士カート
貧乏人です。創作費用に充てたいので……よろしくお願いいたします。