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緊縛のマリオネット
一度、記事に書いた気もするのだが……改めて問い直したいと思ったので、ここに改稿版として載せることにしたい……
※
自分に正直に生きる……という言葉がある。
もっともらしい台詞ではあるが、要は「良識の範疇において」という条件つきに違いない。
殺したい、盗みたい、犯したい……そんな欲望を抱いたとしても、世間では許されない。
人生には努力や忍耐や誠実が、いやでも強要されるはずだ。
誠実に努力を重ね、忍耐を続けることこそ人の道とでも言いたいのだろうか?
所詮、宗教や道徳の押し付けた鋳型にすぎないだろう。
自分に正直と言ったところで……その自分を有らん限り知っている人間など、この地球上には一人もいないはずだ。
日常生活に不都合なことは、自動的に無意識の彼方へと流刑にされ、いかに思考の冒険を試みたにしても、偉い先生方に教えてもらうまでもなく、我々は「構造」の網の目に雁字搦めなのだ。
出自、時代、偶然をも含めた無数の人間との出会い、突発的な事故、病……生きるに従い、人を操る糸の数は増え続ける。
断ち切ろうにも、それも不可能なことだ。
そして、身動きとれぬ緊縛のマリオネットになった時、世間は言う。それが「大人」というものだ、と。
だからこそ、僕は「狂人」が好きなのだ。あたかも魔術師のように、縛りつけている鎖を解いてしまう、そんな「狂人」を僕は愛する。
もとより僕は、往来でナイフを振り回すような輩に「狂人」という高貴の称号を与えるつもりはない。彼らは「狂人」ではなく、鎖を断ち切れない多くの民衆の、悲しい代弁者なのだと思う。
彼らは決して、特異な犯罪者ではなく、模範的「大人」達が作り上げた、負の人格なのだろう。
僕はいかなる犯罪者に対しても、「人間あらざる」という形容詞は用いない。
確かに、そう断定して方が、社会システムとしては利便性がある。
あいつは人間ではない! 獣だ! 悪魔だ!
この麗しの人間界から削除しろ! 兆しが見えたら摘み取れ!
しかし、一度戦が起これば、兵士達は少なからず、「人間あらざる」獣や悪魔に変貌してしまうことは歴史が教えている。
目に見えぬとはいえ、人が死ぬと知りつつ、ミサイル発射のボタンを押せるのはまさに「人間あらざる」者たちに違いない。
その萌芽は、全ての人間が抱えているはずだ。兆しを摘み取れというなら、地球上の全ての人間に死刑判決を下すべきだろう。
そこで、ご都合主義の免罪符が登場する。
正義のためだ!
本当の悪魔が闊歩していた中世と、なんら変わりはない。
免罪符に、鰯の頭ほどの御利益もないことを知っているのが、実は「狂人」なのかも知れない。
鰯の頭が貰えるなら、銃の引き金を引くのか?
免罪符が頂けるなら、ミサイルのボタンが押せるのか?
神など一切信じない、真の「狂人」なら……そんな良識のある「大人」の行動など絶対にとらないだろう。なぜなら、神様がお作りなさった善と悪という対立など、全く無意味と断じられる……まさに「大人あらざる」存在だからだ。
自分に、本当の意味で正直に生きたいのなら、世間の良識などかなぐり捨て、宗教や道徳のお仕着をせせら笑い、善悪の彼岸にこそ拠り所を見つけるべきではないのか?
たとえ雁字搦めのマリオネットだとしても、神の掟に対し「否」と叫び続ける先、緊縛のロープも少しは緩んでくれるかも知れないのだ……
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