スーツの集団
僕はこれまでの人生に於て、殆どスーツを着用したことがない。ネクタイすらまともに結べないことは、これまでにも何度か綴ってきた。
原因はいくつかある。昔から集団で何かを成すというのが苦手で……学園祭などからはいつもトンズラしていたと思う。
要は、たった一人で、コツコツとモノを造り上げるという作業が好きだったのだ。
今思えば、いかなるセンスだに欠落していたというに、絵描きに憧れだのが端緒だったのかも知れない。
と同時に、同居していた叔父1が……これは模範的な銀行員で、常識の権化ながら……年末の忘年会の余興のためなのか……必死になって「安来節(ドジョウすくい)」や「炭坑節(月が出た出た)」の振り付け練習をしていたのが、不快であった。
元来、ユーモアなどとは無縁の堅物が、懸命にフザケようとしている姿に、ある種の社会人の姿を垣間見たのだろう。
これは余談になるが、この叔父1は数年前に他界したのだが……その少し前に会った時、ちょっと遠回しであったが、自分の人生に悔いなし、どころか、多いに悔いている素振りを仄めかしていたはず。
そう言えば、この堅物の叔父1、若い頃は小説家に憧れていたらしく……唯一の作として、盲目の少女との恋愛小説をものしたとも聞いたことがあった。
いずれにしても、僕は大学を卒業してもいっさい就職には背を向けていたのだが……当時、高校時代からの友人のF君が僕の同志とも言える仲で、やはり就職もせず、自由業としての何かを模索していて……ようやく掴んだ演劇の世界に於て詐欺にあい、バイトで稼いだ大枚を巻き上げられたことがあった。
彼と最後に会った時、しみじみと呟いた言葉に……つまりは「挫折」の一言であった。
そして、今まで嫌悪していた会社員(父親のコネを頼っての就職)になることを告げられたのだ。
当時の僕は、彼の切実を理解出来ず、つい軽口を叩いてしまったのだ。
「はっは、とうとう、ネクタイを締める人間になったのか……」
これに対し、彼が強い口調で応えることに、
「お前には、絶対ネクタイは似合わないぞ!」
これ以降、僕はF君とは会っていない。
結局僕は、まさしくネクタイとは無縁の人生を歩むことになったのだが……今一度つらつらと考えてみると、ネクタイに対する嫌悪はずっと昔に遡るようなのだ。
按ずるに、僕はガキの頃、お化け屋敷みたなのが怖くて好きになれなかった。魔物の類いに追いかけられるような悪夢に魘されたこともあったと思う。
しかし、ガキの僕が一番恐ろしいと思ったのは、実は幽霊でも魔物でもない……人間そのものだったのだ。
かなり幼児の頃だと思うが、お袋と……たぶん「丸の内」あたりを歩いていた時のことだ。
前方から十数人のスーツ姿の一団が高笑いしながら、あたりを睥睨するような素振りで歩いて来たのだ。
たぶん場所柄から考えるに、某一流企業の社員達だったのだろう。
あたかも、俺達が日本社会を牽引しているのだとでも言いたげな、傲慢なふぜいだったに違いない。
もとより子供の僕には、そんなことは分からず……だだ、悪寒が走るまでの恐怖心を覚えたことだけは、今に至るまで忘れてはいない。
当然、練り歩く集団と言えば、反社会的なヤクザの方が怖いのかも知れないが……その後、僕は映画なんかで見る、いかなるヤクザ集団よりも、先のスーツにネクタイの集団の方が、遙かに現実的な恐怖心を覚えたことは疑いがない。
理由はどうあれ、ネクタイを拒絶した僕は……完全な挫折組であることは認めている。
ただし、強がりとどんなに罵られようとも、あのスーツにネクタイのゾンビにならなかったことだけは、唯一の救いだったと、自らを慰撫しているのだ。