傘を差して空に舞う
吹き上がる風に乗るよう、手にした傘をやや持ち上げ……ひょいと飛び上がってみた。
とたんに身体はフワリと浮き上がり、風に流され……それでも、ちょっとした身のこなしを以て、方向もスピードも高低も、自在に操ることが出来る。
せいぜい自転車ほどの早さではあったが、なんとも気の浮き立つ瞬間であった。
自動車の屋根を眼下に見下ろし、つい振り向けば、バイクが僕を追ってくる。
もとより白バイの追跡というでもない。
たぶん、一緒に飛ばそうぜという合図なのだろう。
僕は身体をやや前傾に保ち、傘の、風を受ける角度の微調整にかかる。
俄然……スピードが増し、バイクも諦め顔に遠のいてゆく……
雨が強まったせいだろうか……いくぶん飛行に支障をきたし始めたので、僕はつい横手に広がる公園の広場に着地し、近くのベンチに腰をおろした。
もちろん安物ののビニール傘ではあるが、飛行の補助と同時に、立派に雨よけにもなってくれる。
僕はしばし、雨が小降りになることを願いながら空を仰ぐ。曇天の鈍色の光の中、一羽のカラスが飛び回っている。
そう。先ほど僕が傘で空を飛んでいる時、つい横手で「カー」となにやら合図を送ってきた奴だ。
僕が口笛を吹くと、すぐに急降下してベンチの背もたれに捕まったのが、
「おいおい、人間さんよ。その手にしてるの〖傘〗ってやつだろ?」
「百均のビニール傘さ」
「驚いたよ。傘で飛べるなんて」
「はっは、誰も傘に乗って飛ぼうなんてしなかったからさ」
「なんか、分かるね。おいらも生まれたてのガキの頃……おやじやお袋が空を飛ぶのを見て、おいらには出来そうもないって、飛ぼうともしなかったのさ」
「そうなんだ。鳥のくせに……臆病だったのかな?」
「どうなんだろう。もちろん、おいらだって考えたさ。鳥なんだから、翼がある。翼は飛ぶためのツールなんだから、飛べないはずはないってね……」
「理屈先行ってわけか」
「かもね……実際、おいらいくら翼を羽撃かせても、飛べなかったんだぜ……」
「マジ?」
「そうだよ。そんな時、もう飛ぶことを止めてしまった長老がおいらに言ってくれたんだ……」
「なんて?」
「お前は翼で飛ぼう飛ぼうと……そう思ってるから飛べないんだ……ってね」
「なかなか、哲学的じゃないか」
「かもね。要は、翼があるから飛べるんじゃない。飛ぼうと思うことが肝心なんだって」
「で……」
「簡単な話さ。おいらは翼なんかなくてもいいって感じで、木のてっぺんから飛び降りたのさ」
「怖くはなかった?」
「少しはね……でも気がつくと……おいらはなんの努力もなしに、空を舞っていたのさ」
「おめでとう……なんて言うのも可笑しいかな……」
「あんたも、たぶん……傘が飛ぶためのツールだなんて、本当は信じていなかったんだろ?」
「言われてみればね……なんとなく、風に乗れば飛べる気がしたのかな……」
「頼むから、あんまり他の人間には話さないでくれよ。おいら達の領分を荒らされちゃ困るからな……」
「了解。……それより、ちょっと気になるんだけど……」
「何かな?」
「さっき出た長老のことさ。飛ぶのを止めてしまったとか……怪我でもしてるのかな?」
「実はね、飛ぶのには飽きたんで……今度は、人間みたいに歩くこと、やがては頭をもう少し使うことを実践したいらしいんだ」
「カラス界の仙人だね」
「そう、案外人間が空を飛び交っておいら達の領分を荒らすよりも先に、おいら達の方が人間界を荒らしまわるかも……」
「おいおい、宣戦布告かよ」
「さあ……どうなんだろう……じゃね」
おしゃべりカラスはそれだけまくし立てると、さっと大空に舞い上がって行った。
雨も小降りになっている。僕もすかさず後を追おうと思ったのだが……次の瞬間、とんでもない文言が脳裏に閃いたのだ。
俺ってバカじゃないのか? 人間が傘に捕まって空に舞うなんて、出来るわけがないじゃないか……
なにくそ! 僕はその言葉を懸命に打ち消しつつ、傘を翳し、何度も何度も飛び上がってみたが……僕の身体は、先ほどとは違い、全く浮き上がることは叶わなかった。
母親に連れられた小さな子供が、僕を指さして笑っている。
振り仰ぐと……さっきのカラスだろうか……もはやその意味も理解出来ぬ、それでいてどこか嘲笑の響きを伴った鳴き声あげて旋回し……そして遠ざかっていった……
「嗚呼 嗚呼 嗚呼……」