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精神の貴族

 かなりコーヒーが好きなのに……このところ、全く飲んでいない。

 まあ、第一は金銭的な理由である。一時、インスタントコーヒーで誤魔化していた時もあったが……あれはやはり、ドリップした奴とは別物だろう。
 缶コーヒーなどは論外である。

 はっきり言って、間違っても酒はやめられないが、気づけば、コーヒーはしぜん遠のいてしまった。

 思えば、かっては日本茶にしても、ペットボトルではなく、安物の茶葉とはいえ急須で淹れていたものだ。今では、氷を入れたペットボトルの茶をガブガブの口である。

 見事、絵にならない。

 貧すれば鈍する……という言い種がある。貧乏の影響で、精神まで愚鈍になってしまう、ということだろうか。

 いかに貧しくとも、精神の高貴性だけは失いたくないと思っているのだが……どうも怪しくなってきた。

 かって、多少なりともゆとりのあった頃は、コーヒー豆(キリマンとかグァテマラ)をちょい浅めりハイローストで煎ってもらい……ハリオのガラスのドリッパーで、じっくり淹れたものであった。
 酸味系を愛するので、ミルクも砂糖もいっさい加えない。
 ヘッドフォンからは、Johnny GriffinやJackie McLeanのjazzが流れる。

 コーヒーはたいてい二人分くらいを、ガラス製のマグに注いで喫するのだが……この時、お供として吸い込む紫煙はまた格別である。
 ギィっと……夢の扉の開く音が聞こえてくるのだ。

 この瞬間、人様がどう見るかとは無関係に……僕は、精神の貴族の中に遊ぶことができたのだ。
 もとより、僕にとっての貴族とは、実際の身分とは無関係の世界のことである。

 ところが、近頃の僕はと言えば、……コーヒーの習慣を失うと並行して、精神の貴族にとって最も重要である「ゆとり」を失っているように思えるのだ。

 言うまでもなく、本物の貴族という奴は生活など気にすることもなく、「ゆとり」の巨大な風船の中で生きていたのだろう。庶民のことなど、一切おかまいなしに……

 革命だ!

 なぞと、野暮なことは叫びたくない。

 社会学的には、非難されかねない貴族ではあるが……こと精神に於て、僕はかかる貴族性を愛する。
 そう言えば、僕の卒論の題は「人間の高貴性について」とうものであった。

 まずは「ゆとり」のために……多少倹約しても、コーヒーの習慣を取り戻したいものである。まあ、貴族と言うなら、紅茶の方が似合うだろうが……

 そして、「生活」などというものは召使いどもに任せ、益体も無い「夢」の世界の、我が儘な小児に戻りたいのだ。

 当然……僕の言う「貴族」とは「ドブ板の貴族」のことである。

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銀騎士カート
貧乏人です。創作費用に充てたいので……よろしくお願いいたします。