迷子の楽しみ
物の見方の基本として、僕は「俯瞰」というのを信条としている。
自分や他人の立ち位置など、迷いそうな事態に陥っても、冷静に「俯瞰」の眼差しを以て対処すれば……理解、そして解決の糸口もほの見えてくることが多い。
結果、人生の迷子……といった事態に遭遇することも少なくなるかも……
……と、「信条」でははそうなのだが……現実の僕はと言えば、始終迷ってばかりなのだ。
まあ、人生の迷子については、長くなりそうなので……取りあえず、一般の「迷子」について考えてみた。
とにかく、僕は夢の中では、「迷子」になってしまう頻度が多い。
目的地に向かっているはずが……どんどんと遠ざかってしまったり、近道と思ったのが、かえって遠回りになったり……最後には、全く見ず知らずの街角にあって途方に暮れたりなど……
実際の所、夢の世界だけとは限らない。
情けない話ながらも、自宅近くの道筋で「迷子」になることも屡々なのだ。
ちょっと離れたスーパーにチャリで買い物に出かける。……とする。タマタマ、いつもとは違う道に何気なく踏込むことがある。徒歩ではないので、多少道草もおもろい。
当然、頭の中では「俯瞰」を以て、現在地を想定する。
……の、はずなのだが……あれ?
気がつくと……とんでもない地点に自分がいることに気がつく。
目的のスーパーとは正反対の方向に走っていたのだ!
別に「焦る」つもりもないのに……冷静さが吹っ飛び、闇雲にチャリを走らす。
ここを真っすぐ進めば……見慣れたあの建物が見えるはず。そう信じてはいても、一向にたどり着けない。要は、「A街道」と思っていたのが実は「B街道」だったのだ。
いずれにしても、これが僕の日常なのだ。
当然、「回り道」や「寄り道」などせずに……最短で目的地に到着することの方が実際には多い。
こんな時、自分は何を目印に走っているのか? ……と考えてみる。
そう。街の細部など無視し、大まかな、省略された地図を頼りに走っているはずである。コンビニを見たら右に……公園が見えたら、その左に……といった塩梅だろう。
ところが、いったん「迷子」になってしまうと、省略された地図ではなく、いっそ精細な地図の上に放り出された気分になってしまうらしい。
つまりは「情報量」が一気に膨れ上がり……何を道しるべにすべきか、迷ってしまうのだ。
しかし、実際の所……僕はこの「迷子」に不安を覚えながらも、密かに楽しんでもいるのだ。
例えば、「迷子」の通例として、いつもとは正反対の方角から、いつもの目印としての公園を望む。いつもとは見る方角が違うせいだろう……その公園が、まさしく「いつもの」とは違う表情として目に飛び込んでくる。
ほんの一瞬のことではあるが……その「いつもの」公園は、全く見ず知らずの「幻の公園」として僕を迎えてくれるのだ!
まさしく、「いつも」は省略していた事物が、不意に「非日常」の、得体の知れない世界として広がる瞬間。
そう。見落としていたものが……その真の姿を露にしてくれるらしい。
僕の日常は、一般の人から見ればひどく単調で退屈な時間と思われるだろう。
なにせカネがないのだから……旅行なんぞにも行くことは出来ない。
しかし、 ……多分に負け惜しみかも知れないが……特別退屈だとも感じていない。
「俯瞰」の信条とは裏腹に……僕は「日常」のど真ん中にあっても……「夢」の通路に通じる「非日常」を垣間見ることの出来る……「迷子」の名人なのかも知れない。
おそらく、僕の人生にして……「俯瞰」を信条とはしながらも「迷子」を楽しみ、「迷子」にしか見ることのできない、物事の素顔を見つづける……子供の世界を彷徨い続けることだろう……