うたた寝に……
「うたた寝に恋しき人を見てしより……」という、小町の有名な歌がある。
十二単の小野小町さんが、ちょっと姿勢を崩してうたた寝している様を想像すると……ちょっと色っぽい。
「うたた寝」と似た言葉に、「居眠り」がある。居眠りの場合は、オフィスのデスクや教室にあって……寝てはいけないと思いつつ、ついウトウトといった感じだろうか……
イメージとしては「はなぶく提灯」だろう。
間違っても、小町さんのそんな姿は見たくない。
どちらの場合も、「仮眠」や「昼寝」とは大違い。こっちは、明らかに、「ちょっと寝るぞ」という意思が働いているはずである。
かく言う僕は、職場では「うたた種」ならぬ「居眠り」の常習犯である。
人目もなく、結構暇な時間もあるので……つい、提灯を膨らませるのだ。
一時は、暇な時間があるなら読書とも考えたが、どうもいけない……全然頭に入らないのだ。やはり「職場」という「現実」が四方を固めているせいか……「夢」の入り込む隙間がないのかも知れない。
その点、「居眠り」の場合……ふと意識が吹っ飛んで……とば口とはいえ、夢の世界が覗けるのだ。
大抵は、自分の頭の重さでガクッと目が覚めるのだが……その瞬間、奇妙な体験にたじろぐことがある。
まず第一に、ここはどこか? ……と考える。布団の上? 公園のベンチ? それとも職場?
当然、すぐに職場だとは気がつくのだが……次に覚えるのが、上下の認識の曖昧さである。
目覚めた瞬間など、極端に頭が下がっていたり、逆に上向きだったりするせいなのか……どっちが上で、どっちが下か判然としない時がある。
そう。無重力の宇宙船にでも乗っている気分なのだ。
もちろん、これは一瞬の出来事なのだが……確かに意識を取り戻した後、つくづく思うことに……この上下の不確かな無重力の感覚は、もしかしたら「胎児」の感覚に近いのではないかと言うことである。
僕は一貫して「胎児の記憶」などは疑っているのだが、少なくとも記憶の宿る意識の萌芽は認めてもよさそうである。
意識のない状態とは、基本「死」に違いない。
「死」が無重力を漂いつつ、「生」という「意識」を搦め捕ってゆくのだろうか?
かく考えてみると、「居眠り」もなかなか奥が深い。
確固たる「命」の証である「意識」がふと途切れ……「意識」のない「死」の世界に沈み……やがて、無重力の胎児の感覚を以て……徐々に「意識」が芽生え、「生」が再生されるのだ。
恋しき人に遭えるような小町さんの「うたた寝」とは些かふぜいが異なるが……人生を考えるヨスガとして、これからも「居眠り」を励行したいと考えている。