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人生の無計画
「一年の計はなんとか……」
元旦と言わずとも、年の初めに一年の計画を立てる人も多いことだろう。
目標を見定め、そこに向かって着実に近づくための、シッカリとした計画を練ることは、限りのある人生に立ち向かう上で最も基礎的で、全うな方法に違いない。
当然、「生きる」ということは一筋縄ではゆかず、野球の大谷選手みたいに順調なケースはいっそマレであって……大抵の人達は何度も「挫折」を繰り返すに違いない。
ついては、「挫折」に陥った原因を熟慮し……改めてのスタートに向けて「計画」を組み直す。
意思の強い人ならば、何度憂き目を見ても、新たなる希望に向けて、再びの「計画」に腐心することだろう。
まこと、御立派である。
当然、皮肉を言っているわけでは断じてない。
そう。僕という人間は……物の見事に「計画」とは無縁の、「無計画」な、わからず屋なのだ。
この「無計画」が祟って、受験には何度も失敗して苦汁を嘗めたものであった。
思えば「受験勉強」などは……本気で「計画」どおりに学んでゆけば……かなりの確率で志望校には受かるだろう。何分、答は決まっているのだから……着実に暗記してゆけばいいだけの話である。
ところが、僕はこの方法論がキッチリとしているはずの受験に於ても、「計画」糞を食らえで、遊んでしまったのだ。
例えば、僕が選択した「世界史」を例に上げるなら、時代を追っての年代記的な学習が好きになれず……興味のある「中世」から始め、次に「第一次世界大戦」あたり、それからチョコッと中国史、ついで「ローマ帝国」……次に「第二次世界大戦」……その後に「ルネサンス」といった感じの、好事家的な、完全に趣味の赴くままの学習法であった。
他の科目も似たり寄ったりなのだ。英語なんかも、基礎的文法を確実に身に付ける以前に、つい「面白い」という理由だけで、ポーの原書を、自己流に読んで満足しているような有り様であった。
どちらにしても、「受験」には全く不都合であることは言うまでもない。
剰え、僕は完全な「趣味」の領域でさえ……やはり「計画」を嫌い、ひたすらに「無計画」であった。
サックスでジャズをやっていた頃も、音楽理論や基礎トレーニング等閑に、勝手に思い込んだ「スケールアドリブ」で……出鱈目の自己満足に終始していたし……ギターに於ても、同じことで、キャリアの割りには、未だに初歩のあたりをうろちょろしている有り様である。
理屈では理解はしていても……なぜ、かくも「計画」が嫌いなのだろうか?
まさしく自己弁護ではあるが、僕は「人生」というものを、決して「誕生」から「死」に至るまでの一直線上の歴史とは考えていないのだ。
年も押し迫ると、受験勉強する身としては、色々と焦り始めるだろう。同じように、「死」が近づくと、焦りと同時に……「諦観」といった概念で、「挫折」の埋め合わせしようとするのが常かも知れない。
人生を直線状に見るなら、これも必然だろうが……僕は「人生」を螺旋状に生きるという姿勢なのだ。
一般には……子供から大人へ……すなわち歳相応に自らを上書きしてゆくのだろうが……螺旋の世界では、大人であったり子供であったり、あるいは老人であったり幼児であったりの自己が、何度も何度も現前し、……「死」というのが終着点などとは思われなくなってくるのだ。
このnoteの記事に於ても何度かご登場頂いた、平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)に触れることで……少しは僕の生き方をご理解頂けるかも知れない……
明治から昭和に叉がって活躍した平櫛田中という彫刻家は、百歳を超えても制作を続け、没後なんとアトリエには、あと三十年間は制作し続けるだけの彫刻用の木材が残されていたという。
平櫛田中にとって「人生」は決して「一直線」ではなく、……たぶん、「情熱」という螺旋の生き様に「死」などは存在しなかったのかも知れないのだ。
僕としては、「計画」なんぞよりも……「情熱」に裏打ちされた「螺旋」の人生を、ひたすら「無計画」に生きてみたいのだ。
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