見出し画像

初めて見た世界

 胎児時代の記憶を持っている人がいるという。
 四歳ほどで薄れてしまうらしいが、約三割近くが当の記憶を保持していると報告されている。

 はっきり言って、僕はあまり信用していない。言葉というツールなしに、記憶を語るとは何事か、と思うのだが、このへんの事情はややこしいので止めておく。

 僕にとっての一番古い記憶というのは……胎児から、誕生、そして些かなりとも言葉を解し始める前の渾沌の中から、ポンと世界に放り出された、という状況にあった。
 まさしく、世間が言うところの、胎児の記憶が失われる時期……四歳頃……案外二、三歳だったかも知れないが……

 無論この状況は後年、色々と知識を仕入れ脚色はされているが、一つの原風景として脳細胞の特等席に今でも展示されているのだ。
 
 そう。僕はどこか判らない渾沌の中から……放り出され……気がつくと真っ白いシーツの上、腹這いに寝かされていた。
 
 場所は病院の治療室であった。幼児の僕はかなり身体が弱く……大人になるまで生きられるかと危ぶまれたほどであり、始終戻したりの自家中毒で屡々近場の小病院に通ったものであった。

 僕が、生まれて初めて「意識」を以て、見た世界には、医者の姿どころか、当然付き添っているはずの母親の姿も見当たらない。
 シーツの上で腹這いに寝ている僕……要は、尻っぺタに注射を打たれていたらしいが……僕の記憶に、痛みなどはなかったと思う。

 代わって、僕の意識が視覚を以て初めて認識した世界は……診療室から見える病院の中庭であった。
 当の病院というのは、なかなか趣のある洋館で、……僕が今に至るまで、古めかしい洋館に惹かれるのも、そこが意識の誕生の地だったからだろう。

 いずれにしても、僕が初めて目にしたのは、その中庭の中央に設置された煉瓦造りの花壇であった。三、四メートル四方はあっただろうか。
 花壇には、チューリップが咲き誇っていた。
 真っ赤なチューリップだ。血を吸い取ったように生々しく……呼吸するに似て、風にそよいでいたはず。
 僕は、そんな目の前の世界に見惚れ……しばし息をするのも忘れてしまったほどだ。揺れるチューリップは、確かに僕に何かを語りかけているようなのだが……生憎と、当時の僕は、風の歌を聞き分ける力はなかった……

 僕には、ただそんな世界を見詰めることしか叶わない。やがて、咲き誇るチューリップに混じって、何やら白い、寒いまでに真っ白い棒状のものが何本も突き出ているのに気がついた。
 当時の僕は、それが何であるかは判じ得なかったのだが……後年、と言っても幼稚園ほどのことだが……再現ともいえる当時の夢を見、その白い棒状のものが白骨であることが知れた。幼稚園児の僕は、叫んで目を覚ましたらしい。

 もちろん幼児の僕はそれを白骨とは思わず、ステキな玩具と認識し……出来ることなら、それを抜き取って戯れたいと激しく思ったものだ。
 僕は、届かぬながらも懸命に手を伸ばし、白骨の玩具を掴もうと試みた。

 そのとたん……僕の身体は宙に翻り……何のことはない、注射を打ち終えた僕は、医者か母親の手によって、仰向けに寝かせ直されたのだ。

 世界は一転して……真っ白い天井。真っ白い世界。そこに一人の男の顔が出現する。ビックリするくらい長い顔。
 永井荷風みたいな風貌だ。

 これが、僕を治療してくれた病院の院長であった。

 続いて……かなり美しい、化粧気のない女の人の、笑顔と泣き顔の渾然となった、慈愛に満ちた顔が現れ、僕に頬ずりをする。

 さすが、元女優だけのことはある。これが、僕の意識が初めて認識した……僕のお袋であった。

貧乏人です。創作費用に充てたいので……よろしくお願いいたします。