されど「アナログ」……
テレビ等を見ていると、どうも「アナログ」を茶化すシーンに出くわす。
調子の悪いパソコンを叩いたりしている図である。
思えば、かって映りの悪いテレビを叩くという非常手段があったはず。今は昔の、昭和レトロの紙芝居である。
かく「アナログ」的姿勢、感性は古く、オジン臭く、垢抜けない……とでも言いたいらしい。
「アナログ」の対局が「デジタル」であることは言うまでもない。
「デジタル」の方が、スマートで若々しく、最先端なのだろうか?
もちろん「アナログ」「デジタル」をどう捕らえるかき一筋縄ではゆかないだろうが……僕としては一貫して「右脳」的、「左脳」的と解釈している。
確かに、このご時世、「デジタル」がのさばっていることは事実に違いない。
企業の業績なども、不確かな風評よりは、確固たる「デジタル」的数値に重きを置くのは常識かも知れない。
特にスマホが普及した時代とあれば、今まで「アナログ」が引き受けたことを、手っ取り早く「デジタル」に任せるという場合も多い。
よく、スマホの「ながら運転」が問題になる。いや、自動車ばかりか、自転車に乗りつつスマホに目を落している人も多い。
何を見ているかは様々だろうが……その一つ、ナビを活用していることも考えられる。目的地まで、最短で直行するには便利だろうが……ご本人、実際の道を見ずに、デジタル地図の上を走っているのだから……事故ってもおかしくは無い。
ちなみに、僕はナビはいっさい活用しない。元々方向音痴なので……ちと離れたスーパーに寄った帰りなど、日陰を選んで走りつづけて……つい迷子というのも屡々である。
しかし、僕はこの「迷子」という、「デジタル」人間には馴染まない感覚を愛してやまない。
自宅付近のありふれた道筋にあったにして……時に、新鮮な景色に出くわすこともあるのだ。すなわち「遊び心」の発動である。
僕は「アナログ」の基本こそ、この「迷子」と「遊び心」だと信じている。
これを時代遅れと言われようがアンテナとして身構えてみるに、一番面白いのが芸術の世界だろう。
例えば、文学。
一つ例を挙げれば、共にノーベル賞のゴールドウィンの「蝿の王」と、マルケスの「百年の孤独」。
「蝿の王」は特に、デジタル作家の多い日本で人気があるし……映画にもなっている位だから、内容自体が「デジタル」的で、「腑に落ちる」のだ。
一方、「アナログ」に重きを押す安部公房が絶賛するだけあって、「百年の孤独」は……左脳デジタルの分析解釈では、なかなか「腑に落ちない」。
一杯のチョコレートで、人が空中浮遊するなど……デジタル的理屈では理解は難しい。
その点、右脳アナログの眼差しでは……そこに遊んでしまい、ひたすら面白いのだ。
話は変わるが……世の中には、物事を解釈分析しないと気が済まないという「デジタル」人間が多く生息する。
そう。とある女流の精神分析医だったか、これも「アナログ」文学の雄でる「不思議の国のアリス」のアリスを、「男根」の象徴だと述べている一文を目にしたことがあった。
確かにアリスは、大きくなったり縮んだりもするのだが……僕としては、呵々大笑であった。
恐らく、そんな眼差しではマルケスはおろか、カフカなど一生味到出来ないだろう。
なぜ? どうして? ……パソコンやスマホを前に、そうぼやくよりも……文学の根本とは……謎解きでもなければ、哲学的、あるいは心理学的解釈でもなく……子供の眼差しで、まさしく「アナログ」的に……眼前に出現する不気味な甲虫の世界を素直に辿ることに尽きる……と僕は考える。
そう。世界に迷い……そして遊ぶこと……これこそ「アナログ」人間の特権なのだ。
貧乏人です。創作費用に充てたいので……よろしくお願いいたします。