老コオロギの夢
つい腰を落した公園のベンチの脇に……一匹のコオロギを蹲っている。もう11月なのだ。死んでいるのだろうか?
そのように、斃れ伏したコオロギの回りには蟻が数十匹蠢いている。てっきり、餌として巣に持ち帰るつもりなのだろう。
これも自然の摂理か……つい達観して様子を眺めているうち……つい、ウトウトして……
伏した老コオロギは死んでいなかったのだろうか、寄ってくる蟻どもに毅然たる調子で声を掛ける。
「おい、どうした? てっきり餌の見立てだろうに……とっとと解体したらどうかね?」
蟻の一匹が進み出て言うことに、
「まあ、働き蟻として、かく命じられてはいるが、どうも気がすすまないのさ」
「ほお、どういうわけかね?」
「考えてもみてくれよ。この夏やたら長引いて……とっくに天国でのんびり出来る時期たってのに、未だに働かされてるんだぜ」
「はっは、女王様に反旗を翻してのストってわけかね?」
「まあ、一生懸命働いていれば……いずれ、安楽な暮らしが待ってるんで……頑張ってきたけど……もう肉体もボロボロなのさ」
「安楽な暮らしが待ってる?」
「ま、詳しくは知らないけど……女王様の話のよると、おいら達が辛い労働の後には『死』って言う、それはそれは素晴らしいトコに行けるらしいや」
「なるほどね……人間社会と似たようなものか……」
「それはそうと……こないだ人間どもが愚痴ってたけど……なんでもあんたらのコンサートが今年は開かれなかったとか……」
「ま、キリギリスなんかの小規模のライブはあったけど……この異常気象、いつまでも暑くて、コンサートにはまだ早い早いと思ってるうちに、急に冷え込んでくる。知らず、身体がもう言うことを聞かなくなって、コンサートどころじゃなかったのさ」
「あんたもその口かい?」
「これでもコンマスなんだぜ。でも俺の背中のバイオリンもすでに弦は切れてるし……」
「情けないこと言うなよ。よし、おいら達、あんたを助けてやる。その代わり……そうだな、冬の間ゆっくり休んで、春になったら改めてのコンサートってのはどうかい?」
「ほう……いいことを言うねぇ」
「じゃ、これで失礼するよ。あんた一匹くらい見逃したって、優しい女王様のことだ、許してくれるはずさ。とにかく……一刻も早く『死』っていう天国に行きたいのさ」
蟻たちは、老コオロギを残して去っていった。
残された老コオロギの独白に、
「憐れな蟻どもめ。死がなんたるかも知らないのかね。……ま、この俺も、バイオリンが弾けないとあれば、死んでいるのも同じだが……。春か……春ってどこのことだろう? そう。渡り鳥の歌に出てきたな。桜って花が咲くらしいね。……ヒマワリや彼岸花よりキレイなんだろうか? ……せめて、夢の中で……」
干涸びた老コオロギは、すでに落ち葉と同然なのだろうか。
吹き上がる風に頬を撫でられて、僕はうたた寝から目覚める。ついそこの干涸びた虫が、落ち葉と共に舞い上がるのが一瞬目の端を掠め……
……たぶん、夢の通い路に誘われていったのだろう。脳裏のスクリーンに、バイオリンの修理を終えたコンマスに率いられた、虫達の合奏の有り様が彷彿とする。
桜舞い散る、野外コンサートであった。