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深夜の刻、午前二時を僅かに過ぎた頃、通夜の余韻が漂うひとつの部屋に、一人取り残されたような感覚があった。室内は薄明かりに包まれ、灯火は消え失せ、蝋燭の微かな火光が優しく揺らめきながら、外界との隔絶を一層深めていた。線香の煙は不規則に舞いながら空間に溶け込み、鋭い冷気を伴う薫りが胸中に突き刺さるかのように広がっていった。そこに漂うのは、哀愁を帯びた情念ではなく、捉えがたい不吉な予兆を秘めた気配だった。蝋燭の揺れる火は、今にもこの室内の何かが動き出すかのような前触れを、異様な静寂の中に際立たせていた。
その寂寥の奥底より、幾筋もの陰が生まれ出でて虚空を彷徨っているような気配が感じられた。壁に映る蝋燭の光芒は、常ならぬ形状を描き出し、天井から床へと伸びる細長い影は、本来あるべき形状を逸脱して、奇怪な妖姿の如き姿を呈していた。硝子窓の向こうに見える夜空は闇に侵され、星さえも隠れたその漆黒は、生者の恐怖心を煽るかのごとく密やかに佇んでいた。
祭壇に静かに鎮座する叔父の遺影は、蝋燭の陰影に浮かび上がり、光の微妙な揺らぎによってその輪郭が歪み、生前の面影とは全く異なる奇怪な姿に変貌しつつあった。蝋燭の弱々しい火は暗闇に不吉な魔影を落とし、その影は静かに広がりながら部屋全体に背徳の空気を纏わせていた。肖像の周囲に供えられた花々は、生命の躍動を失ったかのようにしおれ、枯れた花弁が無情にも風に揺れていた。これらの情景は、室内に漂う終焉の香りを一層濃密に刻み込んでいた。
唯一、時計の秒針が刻む音だけが、沈黙の闇の中で恐怖の旋律を紡ぎ出し、心拍と共鳴するかのように全身に冷冽な風を運んできた。ふと視線を遺影へ逸らすと、生者の眼が息づくかの印象か、瞳がゆっくりと動きを帯び始めた。目は緩やかに開かれ、放たれた冷ややかな視線が胸奥に鋭く突き刺さる。その眼差しは、知り尽くされた叔父の面影ではなく、邪悪な気配を帯びた別種の影が、こちらを鋭く見据えているかのようだった。蝋燭の火光に映るその瞳は、異界の暗闇の奥底から這い出でた冷酷な趣を漂わせていた。
刻一刻と、その瞳の奥から滲み出る闇の色彩は深まりを増し、見つめれば見つめるほどに、瞳孔の黒さは際限なく広がるように思われた。濁りを持たぬその黒は、底なしの深淵そのものであり、その深奥からは冷気と共に、生者を惑わせる吸引力が澱のように湧き上がっていた。四囲の空気は次第に重みを増し、息をするだけでも身体の芯まで冷え込むような感覚が襲い掛かった。
その刹那、全身に凍てつくような感覚が走り、血色が急速に失われ、筋肉は堅固に固まり、胸中の鼓動は暴徒のごとく乱れ始めた。息は浅く、囁くようなかすれた音しか漏れず、恐怖の鋭利な刃が全身を容赦なく突き刺す。皮膚の奥底で冷気をまとった何かが這い回る感触は途絶えることなく続き、遺影の瞳は無言にこちらを捉え、部屋には押し殺されたような低い呻きが遠くから響き渡った。その声は叔父の響きではなく、冥府の奥底から湧き上がる哀嘆そのものの響きであった。呻きは次第に鋭さを増し、耳を切り裂くほどの悲鳴へと変わり、その激しい音色は頭蓋内を打ち付け、身も心も麻痺させるほどに迫った。
悲鳴の余韻が残る中、視界の片隅に奇妙な揺らめきが現れた。祭壇の奥から始まった揺らぎは徐々に形を成し、人知を超えた何者かの存在を示唆するかのように蠢いていた。細い光条が集まり、その先には輪郭を持たぬ影が暗闇の中に浮かび上がる。一瞬の煌めきと共に現れたその影は、叔父の死に装束そのものに酷似しながらも、その佇まいは生前の姿とはかけ離れた不気味さを湛えていた。
時の流れと共に、室内の空気は一層冷冽と重圧を帯び、線香の煙は狂おしげに振動を伴いながら空間を漂い、蝋燭の火は壁面に奇怪な魔影を映し出した。その輪影は生物が蠢くかのように、静かに周囲を取り巻き、形を変えながらじわりと迫る圧迫感は全身を締め付けた。冷気をまとった影が肌に触れるたび、息をするたびに氷の刃が胸を貫く苦悶を呼び覚ました。蝋燭の火が震えるたび、その影は闇へと溶け込み、名状しがたい悪意を滲ませながら静かに喰らいつくように迫ってきた。
蝋燭の光が揺らぐ度に、壁面に投じられる影絵は怪異の様相を帯び、時に蛇のごとく這いずり、時に鵺のごとき怪形を描き出し、部屋じゅうを跋扈する凶兆として立ち現れた。それらの奇怪な影法師は、物質をも貫くかのような密度を持って迫り、その冷徹な存在感は生者の魂魄をも凍えさせるほどの威力を持っていた。祭壇の上に置かれた位牌が微かに揺れ動き、その上を舞う線香の煙が渦を巻いて人型の姿に変じ、禍々しい気配を帯びながら室内を漂った。
突如、室内に冷厳な風が吹き荒れ、湿り気を帯びた冷気が肌に張り付き、凶兆を孕んだ霊気が静かに忍び寄った。窓際の隙間から染み渡るその風は無言で破滅を運ぶ使者のようだった。蝋燭の炎は激しく揺れ、影は室内を蠢くかのように動き出し、視界の前にある遺影の周囲には、朽ち果てた怨嗟の靄を纏う影の群れが集積し始めた。それらは一言も発することなく、ただ冷たく触れかかるかのように、胸中に重苦しい締め付けをもたらした。低く響く呻きは途切れることなく続き、風は耳元で冥府の哀歌を囁きながら、冷徹な声を忍び寄らせた。
遺影から発せられる異様な輝きは次第に強まり、叔父の顔は絵から抜け出さんとするかのように浮き上がり、その表情には生前には見せなかった憤怒と怨念が刻み込まれていた。肌からは青白い光が放たれ、血管の浮かぶ手は親族の血を求めるかのように伸び、指先に宿る怨霊の気配は、生命の源を吸い尽くさんとする飢餓感を漂わせていた。
部屋の四隅から立ち上る黒い霧は、次第に触手のような形状を形成し、床を這い、壁を伝い、天井から垂れ下がる不浄の鬼気として空間を埋め尽くしていった。それらは生命が宿ることのない物質でありながら、明確な意志を持って蠕動し、その先端は怨みの標的に狙いを定めるかのように揺らめいていた。
身に降りかかる恐怖のあまり、体は身震いし、手の感触すら捉えがたいほどの緊張に覆われながら、祭壇の前に跪いたその瞬間、恐怖の魔縛に屈し、凍える闇の囁きに誘われるかのように、無抵抗に頭を低く垂れた。全身は震撼に支配され、冷えた汗が断崖の如く頬を伝い、喉は極寒の圧力に締め付けられる感触に堪えた。それにも関わらず、線香のかすかな薫りが漂い、静かに体を包み込む感触が感じられ、蝋燭の火も静寂の中で次第に収まっていく兆しを見せた。
跪いた瞬間、床下から湧き上がるような震動が感じられ、古びた畳の隙間から黒い露が滲み出て、その液体は鈍い光沢を放ちながら徐々に広がっていった。その黒い水溜りの表面には、鏡のように天井が映り込み、そこには現実の部屋には存在しない異形の者たちの姿が揺らめいていた。彼岸の住人と思しき影たちは、この世との境目に立ち、生者の魂を冥府へと誘う門番のごとく立ち並び、その眼差しには飢えた野獣のような欲望が宿っていた。
時の経過と共に、禍々しい魂魄は次第にその姿を薄め、遺影の瞳も無表情な面影に戻りつつあった。蝋燭の淡い光が室内を静寂に照らし、線香の薫りがわずかに漂う中、胸奥に深く刻み込まれた恐怖と不安の感情は、なおも重く私を拘束し続けた。あの影は肉眼には捉えがたいものの、心の奥深くにまで染み渡り、漆黒の闇の中で蝋燭の光が乱舞するたびに、心底に巣食う畏怖がじわりと広がっていく感触を残した。休息へと誘う境地に至ることは、遥か彼方の未踏の領域のように、容易には訪れなかった。
遠くで鶏の鳴き声が聞こえ始めた頃、窓の外からは淡い曙光が差し込み始め、その光は邪気を払うかのように室内の暗闇を少しずつ押し戻していった。しかし、夜明けの訪れと共に退いていったはずの影の存在感は、日中になっても心の片隅に居座り続け、叔父の死が意味するものの重さと共に、この世ならざる者の気配は消え去ることはなかった。忘却の彼方に消え去ることも叶わぬ恐怖の記憶は、以後幾年を経ても、月明かりの夜や蝋燭の灯る部屋で鮮烈に蘇り、魂の深淵から這い上がる冷気として全身を支配し続けるのであった。
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