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冥呪俗談 野湯という地獄の釜

深い山々に囲まれたその場所は、時にすら忘れられたかのように沈黙していた。霧が地を這い、太陽の光さえもその薄暗い大気に消されてしまう。そこには、誰一人近寄ろうとしない野湯がひっそりと存在していた。古い伝承では、その湯の底に「地獄の釜」と呼ばれる凶悪なものが潜んでいると囁かれている。

ある日、一人の旅人が深い森を彷徨い、その静寂の野湯に辿り着いた。彼の目的は単なる湯治に過ぎなかったが、その地には抗えぬ力が潜んでいるかのように、無意識のうちに彼を誘った。周囲を見渡しても、生き物の気配はなく、濃密な霧だけが森を支配していた。野湯の水面は不気味なまでに静かで、その底は決して見通すことはできなかった。

彼は疲れた体を癒すため、湯に静かに身を沈めた。しかし、浸かる瞬間、彼の体を包み込むのは温かさだけではなかった。温もりに混じる、異様に冷たく重い感触が、まるで彼を沈み込ませようとするかのように押し寄せてくる。心の奥底に何かがささやきかけるかのようだ。ここから逃れる術はない、と。

その時、湯の中から聞こえてきたのは、耳をつんざくような微かな音。囁きなのか、悲鳴なのか、それは定かではなかったが、遠くから、あるいは彼のすぐ傍から、止むことなく響いてくる。彼は目を開け、辺りを見回したが、景色は変わらず、ただ音だけが冷たく彼の耳にまとわりついていた。

恐怖が彼を蝕む。何かが確実に湯の底で蠢いている。旅人は再び湯を覗き込むが、その瞬間、静かだった水面が不穏に揺らぎ、底の見えない深淵が彼を引き込もうとする。水中には、虚ろな目をした無数の亡者が現れた。それはこの世の者とは思えぬ、瘴気を纏った存在であった。彼らの叫びや呻き声が一斉に湧き起こり、旅人の心を一気に飲み込んでゆく。亡者たちは苦悶に歪んだ顔で彼を見つめ、その手を無数に伸ばし、彼を湯の底へと引きずり込もうとしている。

彼は逃れようとするが、その恐怖に凍りついた体は、すでに思うように動かない。絶望に満ちた亡者の手が彼に触れた瞬間、彼の意識は薄れ、彼は闇の中へと沈んでいった。

気がつくと、彼は暗黒の世界に立っていた。そこは、果てしない地獄の釜であった。周囲には無数の亡者が、終わりなき苦しみの中で呻き続けている。空気は熱と冷たさが奇妙に交わり、時間の感覚を失わせる。彼の魂は、絶望の重みとともにじわじわと蝕まれていった。

どれほどの時が過ぎたのか、もはや知覚する術も失われていた。逃げ場のない灼熱の釜、その中で彼はもはや、ただ朽ち果てることを待つのみ。虚ろな目をした彼が何も感じなくなるまで、地獄の釜の灼熱は彼の魂を焼き尽くしていく。

その地を訪れた者が戻ってくることは二度となく、野湯の存在は語り継がれることすら稀だ。しかし、深い山のどこかにその場所があることを知る者は、決して近づこうとはしない。伝説はなおも続き、山奥のその場所は、人々の恐怖の影として、口伝えに伝わり続ける。

そしてまた、新たな旅人がその恐るべき山へと足を踏み入れるその日まで。地獄の釜は、静かにその底で待ち続けている。亡者たちの嘆きと虚ろな叫びは永遠に鳴り止むことなく、魂は灼熱の中で永劫を生き続けるのだ。

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眞名井 宿禰(眞名井渺現堂)
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