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冥呪俗談 忌門

深夜の山道を走る車内には、不気味な雑音が重たく漂っていた。ラジオから漏れ出る「死ね、死ね」と繰り返される異様な声。それはまるで虚空が吐息を漏らしているかのように耳を侵し、空間そのものが震えているように感じられた。人間の声とは到底思えないその響きは、無機的で荒々しく、冷たい刃が肉を裂くような鋭さを帯びていた。車内の空気は次第に冷え込み、運転手の背筋を汗が伝う。彼は音から逃れようとするが、声は彼の鼓膜にまとわりつき、決して離れようとしない。音量を下げようと伸ばした指先は、動かないダイヤルの前で凍りついた。まるでそれは、目に見えない鎖で封じられているかのようだった。

車内の空気は、次第に圧迫感を増していった。それはまるで、世界の底へと引きずり込まれ、冥府の入り口へと誘われているような感覚だった。運転手は必死に視線を前方へ向けるが、闇の中には何一つ動くものがない。ヘッドライトが闇を切り裂くたびに、白い霧が漂い、あたかも何者かがその背後に息を潜めているような気配が立ち込める。風が山間を吹き荒れ、木々のざわめきが響く。それはただの風音ではなかった。どこか深い地下から這い上がってきたかのような唸り声であり、運転手の心臓を鉤爪でつかむように震わせた。

ラジオの声は歪み始め、耳元で囁かれるかのような異様な音調へと変わる。その声が現実のものであるのか、運転手自身の内側から湧き上がってきたものなのか、もはや区別がつかなかった。彼の意識は次第に正常さを失い、車内の空間はゆがみ、ねじれていく。あらゆるものが幻影のように揺らぎ始めたその時、突如として、道路の向こうに一人の女が浮かび上がった。

亡霊。そう形容するほかに言葉はなかった。薄暗い霧の中、異界から這い出してきたかのようなその姿。冷たい無表情が運転手の視線を凍りつかせた。彼女は、現世のものとも、冥界のものとも言えない曖昧な存在のように見えた。運転手はその場に釘付けになり、心の奥底から何かが引き寄せられるような感覚に囚われた。しかし、視線を凝らす間もなく、彼女の姿は再び霧の中へ溶け込む。そして次の瞬間、まるで夢の断片が繰り返されるように、車の目の前に現れる。幻影か、実在か、その境界はもはや運転手の知覚を超えていた。

恐怖は理性を呑み込み、運転手の手足を無意識に動かした。彼はブレーキを踏み込むが、タイヤは空転し、車は制御を失ったまま滑り続ける。目の前の亡霊はじっと動かず、運転手を見つめ続けていた。その目には哀しみも怒りもなく、ただ冷たく虚ろな静寂だけが宿っているようだった。運転手はその姿を前に、己が避けられぬ運命に囚われたことを感じ取った。彼の進む道は、既に戻る術のないものだった。

そして、次の瞬間。車は崖下へと音を立てて崩れ落ちた。宙に浮く感覚とともに、冷たい闇が運転手を包み込んだ。その瞬間、彼の脳裏には焼け焦げた大地と黒く裂けた岩が無数に散らばる光景が閃いた。地平線には赤い光がうねり、大地を這い回る無数の影が蠢く。それは冥府そのものだった。周囲に無数の光る眼が現れ、そのすべてが運転手を見つめていた。彼の身体は何者かに縛られたように動かず、意識だけがその異界を彷徨い始めた。

それ以来、その場所では奇怪な現象が次々と報告されている。車が転落した崖の付近には、薄暗い霧の中で亡霊の姿が現れるという。目撃者たちは口々に語る。「あの地は地獄の門が開いた場所だ」と。そこを踏み入れる者は皆、冥府へと引きずり込まれると言われている。誰もその噂を軽んじる者はおらず、忌まわしき地としてその名を残している。それでもなお、何かに誘われるようにその地を訪れる者がいるならば、その者はもう二度と、生者の世界に戻ることはないだろう。

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眞名井 宿禰(眞名井渺現堂)
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