冥呪俗談 地下歩道
深夜、ひとりの男が朽ち果てた地下歩道をさまよっていた。
その足音は、深淵に放り投げられた石が消えゆくように虚空に溶け込み、あたり一帯は無音の深海へと沈んでいくかのようだった。薄闇がその身を容赦なく包み込み、彼の進む先をかき消す。冷気がまるで触手のようにまとわりつき、男の体温を奪っていく。場所そのものが生者を拒み、冷たく尖った空気が肌を刺すようだった。天井から突き出た錆びついた鉄筋は、鋭利な牙をむき出しにした野獣のように見え、壁の石板はひび割れ、崩れ、無言のうちにその欠片をぽたりぽたりと地面へ落とし続けていた。この場所は、かつての賑わいを忘却の底へ沈め、腐敗の香りすら宿らぬ静寂の支配下にあった。
ぽつり、ぽつりと水滴が落ちる音が、男の胸を締めつけるように響く。その音は時計の針が狂ったような不規則さを持ち、時の歯車が擦り切れそうな嫌な音を奏でていた。音に心臓が絡め取られ、何かが胸の奥をじわじわと押しつぶしていく。
その足音は、闇の奥底を切り裂きながらも、すぐにその闇に呑まれて消える。冷たい風が頬を撫で、ぞっとするような感覚が彼の肌を這う。まるで死者の指先がその体温を奪い去ろうとしているかのようだった。
この地下歩道は、生きた者を注視し続ける場所だった。見えぬ眼が男を監視し、その存在を無音のうちに犯していく。時間は凍りつき、緊張に満ちた静けさが男を包む。その空気は異様に重く、喉を締めつけ、呼吸すらも奪い取るようだった。
そのとき、不意に背後から足音が響き始める。暗闇の向こうで虚空を震わせ、こちらへと迫るように広がってくる。男は咄嗟に振り返るが、そこにはただの闇が広がるばかりだった。影ひとつない空虚。それなのに空気は重たく湿り、冷たい風が何者かの存在を告げるかのように頬をかすめる。目に見えぬ何かが、無数の眼で男を観察し、その骨を削り、心臓の鼓動を押しつぶそうとしているかのようだった。
男は恐怖に駆られ、歩を速める。しかしその足音もまた追い縋るように加速し、次第に耳元で囁くように響いてくる。それはもはや物理的なものではなく、男の精神を抉り、心の奥底を揺さぶる音となっていた。
胸の高鳴りが耳の奥で木霊し、男は必死に足を動かそうとするが、歩みは重く、地面そのものが彼を捕らえようとしているように感じられる。地下歩道は果てしなく広がり、出口の気配すらも失われているかのようだった。音の渦がその空間に充満し、逃れようとする意志を圧し潰していく。耳を塞いでも目を閉じても、その音は男を執拗に追い続けた。それはただの音ではない。呼び寄せ、囚われ、決して解放しない暗黒の意志そのものだった。
ふいに、耳元でひしゃげた笑い声が低く響き渡る。それは冷たく、鋭く、彼の体温を根こそぎ奪い取るような声だった。恐怖が波のように全身を駆け抜け、男は立ち尽くす。
視界は揺れ、亡霊たちが次々とその前に現れた。虚ろな眼差しで男を見据えるそれらの瞳は、深淵そのものであり、静寂の奥に潜む恐怖を映し出していた。彼らの歪んだ顔は、時間の中で固着した苦痛を語っていた。口を開くことなく、ただ男を見据え、言葉にならない憤怒と悲哀を滲ませている。
その中のひとつ、特異な存在が目を引いた。かつてこの地下を行き交った者の記憶を凝縮したかのような顔。その表情には死後に閉じ込められた魂の苦しみが刻まれていた。
亡霊たちの視線に囚われ、男は自らの崩壊を感じ取った。距離は縮まり、男の内側で何かが音を立てて崩れる。膝はがくりと折れ、無力感が全身を覆った。亡霊たちは動かず、ただ冷徹な笑みを浮かべ、彼の精神を微塵に砕こうとした。
やがて、ひとりの亡霊が口を開く。だがその声は言葉にはならず、男の意識の深層に直接響いた。それは理性を切り裂き、意識を曖昧にし、彼を完全に支配する音だった。地下歩道は男を檻の中に閉じ込め、闇と亡霊の影が泥のように彼を飲み込み始める。
湿気が肌にまとわりつき、空気が体を締めつける。視界はかすみ、足元が崩れ落ち、すべてがさらに暗い深淵へと沈んでいく。冷たい汗が全身を覆い、彼は呼吸さえも奪われた。ついにすべてが消え去り、闇が男を飲み込んだ。
地下歩道は再び沈黙に包まれた。だがその沈黙には、時を越えて誰かの訪れを待ち続ける深い暗黒の意志が潜んでいた。やがてまた、誰かがこの場所に足を踏み入れる時が来るだろう。そのとき、この静寂は再び蠢き始めるのだ。