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心理的安全性と責任と不安と。

僕の職場、職員同士で協力したりとか、能動的に動いたりすることが、恥ずかしながら極端に少ないんです。

例えば誰かがバタバタ仕事に追われていても、それがどれだけ忙しそうでも、「助けて」と言われない限り助けようとしないし、

はたまた、目の前にやるべきことが転がっていても、誰も率先して着手しない。その締切が目の前に迫っていたとしても極力関わらないし、関わりたくない。

たぶん責任持ちたくないんだろうなーってのが透けて見えて、もうね、ほんと嫌んなる。

でもね、そう思ってしまうが全部が全部、同僚や先輩職員のせいだとは思ってないんですよ。


ちょこっと話は変わるんですが、

「心理的安全性」

っていう言葉を最近よく聞きません?

心理的安全性、それが保証されていることがいい職場、いい環境と言われていたりしますよね。

そんな、

"心理的安全性が保証されている"ということを変換すると、"存在を認められる環境"だと僕は理解しています。

例えば、

小学校の学級会や大学のゼミ、社会人なら会議なんかがあって、そこでは人前で発言を求められることがありますよね?

そこで、

あるお題について話してほしい、意見がほしいと言われたとして、

本当は意見や考えがあるにも関わらず、何も言わなかったりしたことありません?

名指しで意見を求められても、「特にないです」とか言っちゃったりしたことありますよね?

その理由が、単純に人前で発言するのが恥ずかしいという性格的なものなら、その場は問題ありません。

でもさ、

「間違いたくない、場違いに思われたくない、的を得てなかったらどうしよう、論点がズレた答えかもしれない…」みたいに、

「正解以外は許されない、誰も自分の発言を求めていないのではないか」なんて感じたこと、1度はありますよね。

それとは逆に、親友を前にして「正解しか話せない」なんて感じることないですよね。


つまり、

親友との会話のように、自分の発言内容が正解であれ不正解であれ、その発言自体が認められると感じていること、それが心理的安全性が保証されているということなんです。

そして今回は発言に焦点を当てましたが、心理的安全性は発言の場だけに留まりません。 

あらゆる場において、認められると感じているからこそ、誰もが能動的に、積極的に取り組むことができる訳です。


でね、やっと冒頭の話に戻ります。

誰も助け合わないし、だれもやるべきことに着手しないし、何に対しても能動的に取り組もうとしない職場。

それを職員の資質や能力だとか言ったり、風土や伝統、空気感だとか、なんだかんだ上司は言うんだけど、

いや、ちゃうねん!

心理的安全性が保証されてないだけやねん。

先輩は後輩に理想を語らせろよ!


おしまい。

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