『フランクル「夜と霧」への旅』を著した、ジャーナリストの河原理子さんの講演会に行ったことがある。話のあと、勇気を出して彼女に話しかけ、短い時間だが話をすることが出来た。 「フランクルの言葉が好きですが、僕はまだ彼ほどの苦悩を知りません。だから彼の言葉を心底からは理解できていない気がするんです」 僕がそう言うと、河原さんは次のように応じてくれた。 「自分の人生の意味(ロゴス)を知る瞬間は誰にもひとしく訪れる、という意味のことをフランクルは言っています。君にもいつか訪れる
小説や詩といった文学作品は、歴史上の孤独な人々が孤独なままに書いたものだと思っていたけど、そうではないかもしれない。たしかに孤独ではありつつ、その孤独と「全人類」とを接続しようとした痕跡として、小説も詩も生まれるのではないだろうか。 なぜなら、もしそうでなければ「感動」という現象が起こるはずはないからだ。 もし孤独なだけで解決するなら、わざわざ言葉にならない想いを、労を費やして言葉にする必要など、ないはずである。言葉にするということは、その時点で「全人類」というものを射
ドラマ『海のはじまり』の第一話を観た。 序盤のほうで、一人の少女が、親の葬儀に参列するという場面があった。 自分が初めて葬儀に参列したのはいつだっただろう。ドラマを観つつ、そんなことをぼんやり考えていた。記憶が間違っていなければ、それは幼稚園に通っていた頃のことだ。曽祖母の葬儀だった。 曽祖母に直接会う機会は少なかったし、まだ物心もつく前だったから、その葬儀の最中、悲しみは抱いていなかったと思う。 火葬場で見た光景だけを記憶している。 曽祖母の肉体が、棺ごと炉に
約2年前、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読みながら、毎日少しずつ、その日読んだ箇所の読書記録をSNSに付けていた。誰に読まれる訳でもない。しかし感じたこと、考えたことを言葉にしたい必然性に駆られて、そうしていた。 しかしその後、一時的な衝動からなのか、SNSで情報に触れすぎることがいやになって、アカウントごと消してしまった。 今更になって、当時付けていた読書記録を読み返したくなる。しかしどこにもそれは残っていない。恋人との写真がすべて焼け消えてしまったような
著書『長い道』は愛読していた。 だが、この映画で記録されているかづゑさんの姿を観て、文章を読んだときの自分の想像は未熟だったと痛感した。そんなものを遥かに超えるほど生命力に満ちた人だと思った。 指を失った手でも、スープを作り、文字を書き、買い物をする。昔に書いた自分の文章を読んで恥ずかしさ混じりに大笑いする。夫の孝行さんと手を繋いだり戯れ合ったりする。母の墓跡に抱きついて離れずにいる。だが、孝行さんの骨壷を抱えて涙することもある。 喜怒哀楽。生命のほとばしり。自分を大
『虐げられた人びと』を読んでいたとき、知人の生活上の世話をしていた。そのためだろうか、病床に伏せた少女ネリーの物語がとりわけ印象に残った。 元々は富豪だったネリーの祖父。しかし彼の財産を、ネリーの母の恋人が持ち逃げしてしまい、その結果、祖父は貧困に陥った。彼はネリーの母を勘当し、やがて貧困の末に彼女は逝去する。孤立したネリーは乞食になったり、意地悪な養母に養子に出されて虐待を受けたりと、救われない末路を辿る。 他のドストエフスキー作品に漏れず、この祖父も、金銭という資本
これまで様々な書店に足を運んだ。しかし定期的に行きたくなる書店、行かずにはいられない書店というのはそれほど多くはない。 そのうちのひとつが、下北沢駅から徒歩五分の場所にある古書店・モクレン文庫だ。現時点では、作家の若松英輔氏が講師を務める講座「読むと書く」の会員のみ入店できることになっている。 僭越ながら、僕は「いい書店」を判断するための個人的な条件を持っている。以下がその条件だが、モクレン文庫はこれらの全てが満点といっていい。 その1、いやな匂いがせず清潔なこと