【雑感】みんな生きるのは一回目

 ドラマ『海のはじまり』の第一話を観た。
 序盤のほうで、一人の少女が、親の葬儀に参列するという場面があった。

 自分が初めて葬儀に参列したのはいつだっただろう。ドラマを観つつ、そんなことをぼんやり考えていた。記憶が間違っていなければ、それは幼稚園に通っていた頃のことだ。曽祖母の葬儀だった。
 曽祖母に直接会う機会は少なかったし、まだ物心もつく前だったから、その葬儀の最中、悲しみは抱いていなかったと思う。
 火葬場で見た光景だけを記憶している。
 曽祖母の肉体が、棺ごと炉に入れられたあと、出てきた時には、白骨体になっていた。
 初めて目の当たりにする白骨体だった。それを見た瞬間、僕は「もう取り返しがつかなくなった」と感じた。もう曽祖母はどこかに行ってしまって、戻ってくることはない、という直感に襲われた。
 逆に、まだ火葬されていなかった時には、「肉体さえあれば曽祖母はまた生き返る」と考えていた。はっきり、そう考えていたことを覚えている。なぜかは判らない。とにかく「容れ物」さえ残っていれば、そこに再び曽祖母は戻ってくるに違いないと考えていた。

「人は死ぬとどこにいくの?」とドラマの中で少女は問う。
 当たり前なことだが、人は、たとえ亡くなっても肉体が消失することはない。棺の中に入れられたり、墓石の下に埋められたりする。
 ゆえに「どこにいくの?」と問うときの「どこ」は、もちろん三次元空間における場所を問うているわけではない。もし「お墓の下にお骨があるよ」と答えられても何かが腑に落ちないのだ。
 そのことを承知しているにも関わらず、なぜ私たちは、亡き人が「どこかに行った」と感じるのだろう。そう感じる私たちの心は、そう感じている時点ですでに、生命の実体というものが単なる物質ではないことを知っているのではないか。誰かに教わるまでもなく、なぜか私たちはそれを知っている。なぜだろう。

 ドラマの終盤、「人は死ぬとどこにいくの?」と少女に問われた主人公は、「わからない」と正直に答える。
 生きている者は誰ひとり死後どうなるかをわからない。どんな権力者も、どんな物知りも、どんなに経験豊かな人も、誰ひとりとして死だけは知らない。この地平において全ての人が平等である。
 つまり、みんな生きるのは一回目である。総理大臣も市民も、富豪も貧民も、老人も幼児も、生きている者は誰も死んだことがない。「わからない」という共通の地平に全ての人が立っている。
 時折、この当たり前な事実が、恐ろしいほど不思議なことのように感じられる。

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