【雑感】映画『かづゑ的』を観て
著書『長い道』は愛読していた。
だが、この映画で記録されているかづゑさんの姿を観て、文章を読んだときの自分の想像は未熟だったと痛感した。そんなものを遥かに超えるほど生命力に満ちた人だと思った。
指を失った手でも、スープを作り、文字を書き、買い物をする。昔に書いた自分の文章を読んで恥ずかしさ混じりに大笑いする。夫の孝行さんと手を繋いだり戯れ合ったりする。母の墓跡に抱きついて離れずにいる。だが、孝行さんの骨壷を抱えて涙することもある。
喜怒哀楽。生命のほとばしり。自分を大きくみせることなく、徹底して自分自身のままに振る舞うそんな姿を観ていると、次第に次のように思われてくる。
「宮崎かづゑという一人の人間が生きているというより、一つの魂が宮崎かづゑという肉体を通じて現世に現れているのではないか」と。
魂は肉眼には見えない。それゆえに彼女は、社会一般的な意味での「目に見える」美しさとは異なる不可視な美を全身から放っている。
著書『長い道』で著者は、幸福について論じることはしていない。
論じるのではなく、まず生きて、生活をして、その過程で顔を覗かせる生命のほとばしりみたいなものに便宜的に「幸福」という名を与えているようなのだ。すなわち「幸福を論じる」のではなく「幸福を生きる」ことによって、その非物質な概念の実体を読者に示してくれている。
それは映画『かづゑ的』においても同様だった。彼女は幸福について論じてはいない。記憶が確かならば、その一語を発してさえいなかった。それでも、この映画は紛れもなく「幸福を生きる」人間の姿を映している。スープを作る手の中に、人と話すひとときの中に、
映画を観終えたいま、僕は、宮崎かづゑさんが確かな熱量をもって次のように語りかけてくれているようにさえ感じるのだ。
「肉体から何を取り除かれても、社会的に何を奪われても、いかなる悲劇に見舞われても、精神からは何を奪われたことにもならない。やろうと思えば、私はいつでも幸福をつくりだすことができるのだ。誰からも奪われない、誰との比較も拒む幸福を。これこそ精神が奪われていないことの端的な証拠である」と。
だが、その一方で、印象的だった場面がある。
ヴォイスレコーダーにかづゑさんは次のような意味の言葉を残す。
「人間は恐ろしい生き物なのか……それとも愛のかたまりなのか……教えてください。私にはわからないんです。」
何を想起しながら、この言葉を発したのかは判らない。
だが一つ言えるのは、彼女がまだ「問いの渦中」にあるということだ。90歳を超えてもなお、人間として生きるとはどういうことなのか、その難題に言葉を通じて正面から向かいあっている。彼女の言葉に押しつけがましさが無いのも、説教らしさが無いのも、他でもなく彼女自身がまだ求道者という自覚があるからだろう。
著書『長い道』では、終盤で、トヨちゃんという親友に向けて次のような詩を残している。
“ありがとう、トヨちゃん
もう人間はやめようね
私もそれだけは……
生まれ変わってきたいなどと思わないんだよ”
この一節を綴ったのは2009年だと推定される。それから約15年、映画の撮影や孝行さんの死などを経て、改めて「人間として生きる」ということを著者はどう考えているのだろう。
それはとりもなおさず、宮崎かづゑという一個人の意見ではなくして、ハンセン病を背負っていた人々……ひいては「尋常ならざる苦難を生きた人々」にとっての普遍的な言葉になるだろうと思われる。
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