【書評】ドストエフスキー『虐げられた人びと』

『虐げられた人びと』を読んでいたとき、知人の生活上の世話をしていた。そのためだろうか、病床に伏せた少女ネリーの物語がとりわけ印象に残った。

 元々は富豪だったネリーの祖父。しかし彼の財産を、ネリーの母の恋人が持ち逃げしてしまい、その結果、祖父は貧困に陥った。彼はネリーの母を勘当し、やがて貧困の末に彼女は逝去する。孤立したネリーは乞食になったり、意地悪な養母に養子に出されて虐待を受けたりと、救われない末路を辿る。
 他のドストエフスキー作品に漏れず、この祖父も、金銭という資本主義的社会における「神」に狂わされてしまった一人である。孫のネリーに乞食をさせて「これはパン代だ、今度は煙草代を集めろ」。街で偶然出くわしたネリーの母(祖父にとっては娘)が脚にすがってきてもステッキで叩いて追い返す。
 興味深いのは、つかのま彼がネリーに対して善良に接するところだ。パンやお菓子を恵んだり、地理や聖書を教えてやったり。
 しかし話が娘のこととなると事態は一変する。
「イエス・キリストは汝ら互いに愛し合い、その罪を赦せっておっしゃってるのに、どうしてお祖父さんはママを赦そうとしないの」とネリーに尋ねられた祖父は、「お前はママにそういうことを吹き込まれたな」、「もう二度とわしの家に顔を出すな」の一点張り。
 それからネリーは祖父の家には行かなくなり母の体調は悪化する。感情の矛盾と起伏。二転三転する言動。善悪の一元的な判断を拒む描き方が、この作家は秀逸である。
 ドストエフスキーは、史実としては敬虔なキリスト教徒だったというのが通説だろう。しかし、本作の祖父がそうであるように、聖書の教えが人間を救うという絶対視はしていないようだ。これは『罪と罰』において、放蕩な夫であるマルメラードフの亡き後に司祭が来て、「主人を赦しなさい」とマルメラードフの妻を諭したさいに、彼女が「言うだけならなんとでも言えます」と激昂し、司祭が沈黙する場面にも通ずる。
 では何が人間を救うのか、という問いが浮かぶが、結論を言えば、そもそも祖父もネリーも母も、誰一人として「救われて」などいない。母の最期まで祖父は母を赦さなかった。そのさまを目撃して育った少女は、己の最期にも、私生児としての父であるワルコフスキー公爵を「赦さない」という決意を固める。母が公爵を赦さず、祖父が母を赦さなかったのと同様に。憎しみは連鎖し、願望は残されたイワンに託され、親娘は共に息絶える。
 だが、ネリーの歴史を知って感化された人物がいる。娘のナターシャを勘当しかけていた老イフメーネフである。彼は、ネリーのような悲惨な歴史を繰り返したくないという一心で、娘を赦す腹づもりを決めたところにナターシャが家にやってきて抱擁をする。
 しかし、これほどの影響を与えた少女本人は、幸福よりは憎しみのうちに最期を迎える。

 この作品でドストエフスキーは「虐げられた人びと」を描いたが、虐げられた少女や母や祖父たちがいかにして救われるかは書いていない。書いてあるのは、ただその救われないままに息絶えた魂の姿である。
 文学者は救済者ではない。ただ現実を見つめ、そして見つめる。読者はそのまなざしを通じて現実を見る。そうして混乱期のロシアの貧しき人々の声を聴く。つまり亡きネリーをとりまく人びとのうちのひとりに我々読者も含まれていることに読後、気が付く。そしてイフメーネフがそうしたように、我々が心に内包する「虐げる者」あるいは「虐げられる者」へと目を向けることが促される。ドストエフスキーの描写した現実をどう受け取り、どう感受するかは、全くもって我々一人一人の感性に委ねられている。

 なぜ、ドストエフスキーの小説を時々無性に読みたくなるのだろう。その理由はあまりに広範囲に渡るため一言では表しがたい。だが一つ挙げるとするならば、やはり、救われない人びと、貧しき人びと、あるいは我執にくらみ”神のように”なった人びとを見つめる彼の「まなざし」を通じて、己自身に内在しているかも知れない、そのような”人びと”を覗きたくなるからなのだろう。

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