個人・全人類・言葉
小説や詩といった文学作品は、歴史上の孤独な人々が孤独なままに書いたものだと思っていたけど、そうではないかもしれない。たしかに孤独ではありつつ、その孤独と「全人類」とを接続しようとした痕跡として、小説も詩も生まれるのではないだろうか。
なぜなら、もしそうでなければ「感動」という現象が起こるはずはないからだ。
もし孤独なだけで解決するなら、わざわざ言葉にならない想いを、労を費やして言葉にする必要など、ないはずである。言葉にするということは、その時点で「全人類」というものを射程に収めているのではないか。
「自分一人で理解したいために言葉にするんだろう。全人類なんてものは別に関係ないはずだ」。
たしかに、そのような見方もできるだろう。
だが、そこが不思議なところなのだが、私たちは言葉にならない想いを自分一人で理解するためにも、なぜか言葉という、万人に通ずるものを用いなければならないのだ。つまり言葉という地平において「個人」と「全人類」は、いやがおうにも接続されてしまっているのである。これはどういうことだろうか。