基本的には『勉強の哲学』の補章を読んでいた
くそ長いジャズアルバムを聴いている。私はそれを反復とすることなく、ただ単にたまに浮かび上がる、ジャジーな雰囲気に身を、たまに任せている。二重の「たまに」。
根拠を問うためには判断がなされなくてはならない。そしてこのことを意図してか意図せずか隠す=露わにするのが規範という概念、専門用語です。
規範ってよくわかんなくないっすか?という単純な疑問がある。
いやもちろん、このよくわからなさを隠れ蓑にするやつはくそですけど、それにしても不思議さはある。だから「専門用語」なのです。普通の語彙だけれど「専門用語」なのです。
「何も信じられない」ことが問題なのではなく「信じていることにしなければならない」ことが問題なのである。しかし、その問題はすぐに解決されると思う人がいて、そういう人にとっては「信じている」が決断である、断つことに決めることであることが問題なのである。
「人は何らかの価値観ないし規範から人を判断していて、日常はそういう価値判断の連続です。」(226頁)こういうときの「規範」とか「価値観」とかは何らかの活動(これをうまく言えないのですが)のために要請されたものであり、こう言ってよければそれに過ぎないのではないか。
まあ、千葉としては大事なのは「連続」と「日常」のカップリングなのだろうけれど。
たとえば、女性はこうあるべきだとか、管理職ならこう考えるべきだとか、人は何らかの価値観ないし規範から人を判断していて、日常はそういう価値判断の連続です。
そこでアイロニーをかけて、本当にその判断は正しいのかと考えてみる。会社で、この業務を担当する者はこうふるまうべきだ、と思っていたけれども、いや本当にそうだろうかと疑ってみる。価値判断を一時停止する。そこで、ユーモア的に別の見方をしようとする。……すると、だんだん、ある特定の価値観のもとでの判断ではなくて、ただ目の前で起きている出来事をそのまま見て受けとめるという感じになっていくでしょう。
目の前で起きている出来事、人の言動の良し悪しを即断できなくなる。判断が宙づりになる。朝、会社で上司が私に言ったことを、アドバイスとして受け取る価値観もあれば、皮肉として受け取る価値観もあるし、冗談だと捉える価値観もあるかもしれない。そのように、さまざまなフィルターをユーモア的に並列させる練習をすれば、人から言(/)われたことの解釈はひと通りではなく、いろいろだと考えることができるようになる。
そうすると、多様な解釈のいわば「交差点」としての、ただ言われたこと、ただ起こっている出来事に向き合うことができるようになる。言われた文字通りの言葉、そのトーン、リズム、身ぶり。それだけ。誰かが、音として言葉を発し、脚を動かして去って行く──野生の動物のように。あなたはその出来事に、自然を観察するみたいに立ち会っている。
226-227頁
この「……」と「──」がカップリングされていて、これこそが千葉の実践性、少なくともこの時点(2020年時点)での実践性なのでしょう。ここで私が不思議に思うというか、凄いと思うというか、良いなあと思うのは「ある特定の価値観のもとでの判断ではなくて、ただ目の前で起きている出来事をそのまま見て受けとめる」ことがアパシーにならないこと、「さまざまなフィルターをユーモア的に並列させる練習をすれば、人から言われたことの解釈はひと通りではなく、いろいろだと考えることができるようになる」と言われるときの「考える」がなされるということです。特に刺激も要請も触発も賦活も誘惑も煽動もなくても。
激情(劇場)的な人間を落ち着かせることと不感症(俯瞰症)的な人間を動かすことはこの二つの人間を両極に置けば構造的には同じことになるのだろう(それが何らかの理論を構築するということであろう)けれど、やはり私たちはどちらからか始まるのだし、両極は両極端になるだろう。
僕は凄いことに気がつく。けれどそれが自然と浮かんでくるまで待っている。例えば最近で言えば「削除というのは最も私的な行為である。」ということ、また似たことに「書かないというのは「私」を知ることである。」ということ、これらは凄いことなのだが、とりあえず置いているのだ。
これいいね。「East of the Sun(West of the Moon)」。
いま一般に流通している音楽のルールを絶対視する根拠はあるのか?という疑問はアイロニーで、民族音楽などの響きへと耳を拡張するのはユーモアです。その二つを組み合わせることで、ただの出来事としての音に向き合えるようになる。その次元を指しているのが、ジョン・ケージの作品≪四分三十三秒≫です。この作品は、ピアニストがピアノの前に座ってもピアノを弾かないことで有名です。その四分三三秒の間、耳に入(/)ってくるのは会場のさまざまな雑音なのです。つまり、ただの出来事を聞くのです。
236-237頁
ジョン・ケージはまあどうでもいいけれど、「ただの出来事」がアイロニーとユーモアの「二つを組み合わせることで」それとして生まれてくるというのは『勉強の哲学』よりも一歩踏み込んでいるように思える。あ、ここまで書いてませんけど『勉強の哲学 来るべきバカのために 増補版』(文春文庫)を読んでいます。ここまでの頁数もそれです。
佐藤優の解説も読んでみよう。
つまんなかったあ。にこにこ。
あんまり聞いてなかったが、サラ・ヴォーン、全部いいね。
大澤真幸の『勉強の哲学』の解説を読んだ。これはまだ形にはならないが、アイロニー方向の「複数性」がユーモア方向の「複数性」とは違うものとして取り出されようとしているものとして『センスの哲学』を読めるかもしれない。あと、これはただ単に同じ概念「遡行」があるからに過ぎないかもしれないが「無限遡行」の「遡行」がそもそも始まるところにアイロニーが置かれているがそこにも「複数性」があってそのミニマムな関係が福尾匠が『ひとごと』で言う「ぼおっとする/しゃんとする」の対比とその関係としての「瞬間的に行き来することで生まれる齟齬」なのかもしれない。
アイロニーとユーモアについてもっとスケールの大きいところから考察したものが『ドゥルーズの21世紀』所収の「儀礼・戦争機械・自閉症 ルジャンドルからドゥルーズ+ガタリヘ」だろう。たぶん。
いまが読むのは骨が折れるので骨が折れないように読もう。とても面白かった記憶がある。
ちなみにこの論稿は2019年の論稿集に収録されている。
私の解釈、というかまだ直観だが、直観は「無限」の「有限化」には二つの段階がある。いや、二つの局面と言っておこう。順番ではないからだ。一つの局面は「儀礼」の局面であり、もう一つの局面は「仮固定」の局面である。
ただ内在的に儀礼を遂行しているという状態は、二つの根本態度に分岐する。それは不安を抑えている(/)のか。あるいは、そもそも不安がないのか。
『ドゥルーズの21世紀』275-276頁(ここからも特に断りのない限り頁数はこの本の頁数。)
そうか。私は後者の態度に近いのかもしれない。千葉は前者の態度に近い。ただ、それが実践的なことを目指してそうなのか、それとも普通に千葉自身がそうなのかはよくわからない。
享楽的なものとしての儀礼に"かまける"ことで、我々は合理性の無限進行を考えないで済む──サディズムの停止である。と同時に、儀礼は、マゾヒズムを停止するものとしても理解されなければならない。あらゆるドグマは、"行きすぎた解釈"が起こらないようにするための解釈-儀礼と共に形成される。ドグマは、慎重に、消極的に──限られた言葉とイメージの範囲内で──解釈しなければならない。この制限は、特権的な「解釈者」の階級、すなわち「司祭」たちによって他の者に強制される。
282頁
なるほどね。「無限」は「有限化」によって「無際限」となり、それを欲望という「無限」と同じでありかつ違うものになすことで「儀礼」が成立するのである。
面白かった。正直よくわからなかったがわかりたくなった。精確に言えばわかったがもっとわかりたくなった。ちゃんとリアリティを持って、プレイグラウンドを見つけて。
私は檻の前で揺れるのが好きです。なぜかって?そこでは平面がリズミカルになって、それによって世界の奥行きがわかるからですよ。
今日はとりあえずここで終わり!