お風呂上がり①

お風呂から上がってきた。頭を拭いている。お風呂という空間、時間、習慣、儀式は考え事がしやすい。ただ、その考え事はまとまらない。まとめることができない。ただ単に日常にアクセントがつけられる。曲が終わることはなく、並行的に曲は流れ続ける。そんな感じがする。とにかくここでしたいのはお風呂で考えたことを文字にしておくことである。

別に文字にしたところでなににもならない。ただ、私はそれが好きなのだ。まあ、後に述べるように一種の償いとして私は書いているのかもしれないが。

私は一日、おそらく平均すると8000文字くらい、何かを書いている。ただ、今日は疲れていたのか、それとも気分じゃなかったのか、それとも、なんなのかはわからないがあまりものを書かなかった。数少ない今日書いたものを引用するところから始めよう。私が書いたのは次の四つである。(番号はいま私が振った。)

①背景を補足することと文自体に補足することの違い。補足と追加の違い。

②野暮だとしても、私は私の詩を解説、いや、その詩がどういう流れのなかにあるのかを語るよ。詩はもちろん作品だけど、もしかしたらそれ以上にパンチラインなんだから。

③一発パンチラインを放たないといけないくらい、今日は何も書いていない。ボリュームがない。しかも読んでもいない。だらだらして、ダラダラYouTubeを見ていただけである。お風呂。

④なりそびれ、なりそびれた原因、そして理由を明らかにする。明確にしてゆく。そういう側面が哲学にはある。

まず、どうでもいいかもしれないが、①と②は仕事の前に書かれたもので、③と④はお風呂に入る前に書かれたものである。それぞれ少しずつ読んでいこう。読むことは一つのエクササイズ、でもあるのだ。手がかりでもあるし、支持体でもある。

①の「背景を補足することと文自体に補足することの違い。補足と追加の違い。」は簡単に言えば推敲論である。「推敲とは何か」に関係する問いというか、問題設定というか、そういうものである。推敲には修正と補足があり、その補足には「背景を補足すること」と「文自体に補足すること」があるということがここでは言われている。そして「補足」を前者に限定し、後者は「追加」と呼ぶのはどうか?という提案とともにその二つの違いを考えることが促されている。まあ、書いたときに促してやろうとは思っていないと思うが。

この文章の後ろには「読みたい本を挙げていく」という文章があると思われる。というのも、私はそこで()と[]を駆使して補足しまくっているからである。それを次の日の私は推敲して、それを「補足癖」と呼んだからである。この文章は一応、そういう流れのもとで書かれている。ここだけ読んだ人はわからないと思うが。ちなみに私は「日記」というマガジンに日々書いたことを(すべてではないがほとんど)載せているのでそれを読めばこの流れはわかる。そんなことを言ったらすごく前からの流れもあるだろうけれども。ちなみにその文章は以下。

②の「野暮だとしても、私は私の詩を解説、いや、その詩がどういう流れのなかにあるのかを語るよ。詩はもちろん作品だけど、もしかしたらそれ以上にパンチラインなんだから。」は簡単に言えば詩論である。私がここで想定している「流れ」というのは歴史的文脈というよりもむしろある詩が詠まれた状況のことを指している。例えば、私は「黄金の雲の切れ端小鳥鳴く」という詩を退職したときに詠んだ。別にその状況の説明がなくてもこの詩はそれ自体として良いものであるが、状況が加わるとそれはもっと良くなる。何かに響く。より普遍性を持つ。それは確かにやり過ぎると「野暮」なのだが、それでも私は私の詩を、その力を引き出すために「野暮」を覚悟で、「解説」ではないような「補足」をするよ、みたいな決心が語られると読んでもいいかもしれない。ちなみに詩それ自体というあり方が「作品」と呼ばれていて、それがある状況のなかで作られたということが「パンチライン」と呼ばれている、そう読むのが良いと思う。ちなみにもっとちゃんと「流れ」を作ったものとして以下の文章が挙げられると思う。これを読めばここで言われていることがもっと感覚的にわかると思われる。

で、仕事をして、疲れて寝てしまって、起きてご飯を作って食べて、だらだらしてから③の「一発パンチラインを放たないといけないくらい、今日は何も書いていない。ボリュームがない。しかも読んでもいない。だらだらして、ダラダラYouTubeを見ていただけである。お風呂。」を書いた。ここにあるのはある種の罪悪感、とそれを問い直そうとする姿勢である。いや、問い直そうとする姿勢はただの投影に過ぎないかもしれない。私はお風呂で主にこのことについて考えていた。投影された姿勢ではなく罪悪感について。投影はここでなされた。

なぜ罪悪感が芽生えるのだろうか。ただなにもしなかったことと「ダラダラYouTubeを見ていた」こと、どちらがより罪悪感を芽生えさせるのだろうか。いや、問いが少し違うかもしれない。この二つのことが結合したとき、私たちは罪悪感を感じるのかもしれない。ただ、その解決策というか、理想的状態というか、それとして読むことと書くことを挙げるのは私たちとは言えないようなもっと小集団に通じる論理であろう。このこと自体は気づきとしてロックしておくが、それよりも私は「ボリューム」というところが気になった。

私は上でも書いたように一日平均して8000字くらい文章を書く。一週間で約60000字である。それは結構な「ボリューム」である。しかし今日は現時点で、これを書いているから増えているがお風呂前までではおそらく400字くらいである。しかも別に書いていないからと言って読んでもいないのだから、私は罪悪感を感じていたわけである。しかし、私はそれを問い直してみたいのである。だからこそ姿勢として自らを投影するようなことをしたのである。

ただ、それがうまく設定できない。ある程度「ボリューム」があることの長所はおそらく「『補足』する/される」の関係が一日のなかにも多様に存在すること、いや、精確に言えば存在しうることだろう。一日の文章は特に何も考えなければただ単にブロックのように置かれていく。①のような推敲論、②のような詩論、③のような読み書き論、④のような哲学論、それらがただ単に並んでいく。特に編集もされず、切り貼りもされず、ただ並んでいく。それらは「補足」になったり「本文」になったり、多様に図と地を反転し続ける、し続けうるものとして保たれている。もちろんこれは一日というどうでもいい、人が決めた、自然が決めたに過ぎない区切りの上に成り立っていることである。ここでしているのはそれを示すことであると言ってもよいかもしれない。ただ、どうでもいいからこそそれにこだわることもできる。最近私は「足元のゴミを拾うことからカオスはコスモスになり始める」(内田樹がどこかで言っていた気がする。)みたいなことを実感している。仕事をしていて、溜まっていくタスクに優先順位をつける、そんなことからそのことを実感している。そういう、一気にすべてをしなくてもいいような、そんな自分を発見することでやっと、私は一日のどうでもよさをそれとして実感し、一時間のどうでもよさをそれとして実感し、しかしそのことによって繋がっていく自分、自分たちを訝しく思ってもいる。そういう揺らぎがここには現れているように思われる。「ボリューム」があること自体がいいことではないが「ボリューム」がないとできないこともある。そんな心持ちがうかがえる。

ところで、罪悪感はなぜ生じていたのだろうか。なにもしない時間、なにもしない一日があってもいいではないか。もともとどうでもいいんだし。もちろんそうだ。しかし、私たちは過剰で、しかもその過剰さをどう節制するか、それを私たちは考えなくてはならない。そして私たちは命じられているのだ。その節制をどのように遂行するかを。この命令を「成長せよ!」「努力せよ!」であると解釈して、その命令を批判することには飽きてきたので今回は保留にしておこう。「またいつか」という未来の時間を祝福することにしよう。

人の生には限りがあるし、手放すことは相手に何かを委ねることだし、語りきれなかったことは「またいつか」という未来の時間を祝福している

『なしのたわむれ』3頁

④の「なりそびれ、なりそびれた原因、そして理由を明らかにする。明確にしてゆく。そういう側面が哲学にはある。」は簡単に言えば哲学論である。私は罪悪感を償うために哲学論に頼ることが多い。そう言えば私はお風呂で「償いとしての○○」みたいに考えようとしていたのだった。そこに強引に引き込むとすれば、この④は「償いとしての哲学」から逃走しようと、もしくは「償いとしての哲学」を拒否しようとしているように見える。「なりそびれ」るということを失敗ではなくただの事実として見つめることによって。例えば私は普通の社会人に「なりそびれ」たが、それを明確にするために上のような、「一気にすべてをしなくてもいいような、そんな自分を発見することでやっと、私は一日のどうでもよさをそれとして実感し、一時間のどうでもよさをそれとして実感し、しかしそのことによって繋がっていく自分、自分たちを訝しく思ってもいる。」ということを考えている。哲学にはそういうところがあると私は言っているのだ。そして私はそれを「成長」とか「努力」を「批判する」こと以外に向けようとしているのである。新しい哲学に向けて。私にとっての。

さあ、なんとなく満足しました。最近読んで面白かった文章を引いて終わりにしましょう。

ベルクソンの時間論のオリジナルなところは、単に複数の時間が横に"並行して"走っているというだけでなく、"縦に積層している"という点にある。生物種によって、あるいは同じ人間のなかでも個人によって時間が違うという話ではなく、"一人の個人のなかに"、同時に複数の時間が流れている。ベルクソンは異なる「持続のリズム」という言い方をしているのだが、彼が念頭に置いているのは「スケール」の違いだ。途方もないミクロな時間スケールから、マクロな時間スケールまで、多層的なスケールの時間が同じ一人の人間(あるいは一匹の生物)のうちに走っていて、そしてその構造が、私たちが意識や心を持つこと、想像し発明する知性を立ち上げるための条件となっているというのである。これが、単にバラバラな多元論ではなく、時間に「縦軸」を擁したマルチ「スケール」と形容すべきだと私が考える理由である。

『世界は時間でできている』50頁

今日はこの本、『世界は時間でできている』の第二章を読もうとして読めなかった。疲れていて。そして私は私に投げかけたのだ。「疲れているからと言ってやめるならお前はそこまでで何者にもなれないぞ!」と。しかし私は即座に返したのだ。「何者にもならなくてもいい。」と。おそらく私は第三者、審判員として③と④を書いたのだ。お風呂の前に。


驚いた。この文章自体は『世界は時間でできている』が示そうとしている転換を示しているかもしれない。推敲していてそう思った。「空間」から「時間」へ、「習慣」から「儀式」へ。そして「並行」から「積層」へ。

一つだけ引用させてもらおう。この驚きをロックしておくために。

世界が複数化したポスト・トゥルースの状況においては、同じ世界=事実という儀礼へと人々を"誘い込む"ようなふるまいが必要である。何らかの規範のごり押しではない。ある事実へのインビテーションが必要なのだ。それは、社交である。社交とは、異なる事実=世界のあいだですり合わせを行い、ひとつの儀礼をつねに未完のものとして、変化可能=可塑的なものとして構成し続けることである。

『意味がない無意味』34頁

いや、二つになりそうだ。「世界が複数化したポスト・トゥルースの状況」の形をなぞるために。

ポスト・トゥルースとは、ひとつの真理をめぐる諸解釈の争いではなく、根底的にバラバラな事実と事実の争いが展開される状況である。さらに言えばそれは、別の世界同士の争いに他ならない。真理がなくなると解釈がなくなる。いまや争いは、複数の事実=世界のあいだで展開される。ポスト・トゥルースとは、真理がもはやわからなくなった状況ではない。「真理がわからないからその周りで諸解釈が増殖するという状況」全体の終わりなのである。そうなると、他者はすべて、別世界の住人である。まさしくこの意味において、あらゆる他者は何をするかわからない者なのである─私にとっての事実の端的さの外部から、"別の事実の別の端的さによって"、"異質なる自明性によって"、"意味がなく無意味に"私に接近してくる他者。

『意味がない無意味』32頁

もちろんこれは一種のエスカレーション、極限の提示であると思うが、ここで述べられている転換自体は重要だと思われる。そして重要なのは、私が「一種のエスカレーション」とわざわざ言っているのはこの文章の「流れ」が、「並行」から「積層」へ、であるとともに「並行」から「並行と積層」へ、でもあるからだ、ということである。この二つの引用はそのことを教えてくれるはずである。『世界は時間でできている』からの引用と共に。共立。平面。内在平面。揺らぎ。

稲刈りの後の田んぼの上で、鳥たちが何かを囲んでいる。軽い平面、緩い円、かごめかごめをしている。早朝のこと。私たちの深夜。鳥たちの早朝。

2024/10/31


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