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いつだって子どもは、私たちの先を行く。
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3歳の娘は昆虫が好き。
「みて!虫がいるよ!」
娘は虫を見つけると、満面の笑みで報告をし、繋いだ手を力強く引っ張っり教えてくれる。私は、虫と出会ったことを大袈裟に喜び、発見した娘を褒める。
傷だらけのカナブン、寿命を終えたセミ、蟻に羽を食べられたトンボ。目に入る虫たちを、地面スレスレまで顔を近づけて、時間を掛けてじっくりと観察する。(観察対象はだいたい死んでいる)
娘が熱心に観察をしている間、私は娘の一歩後ろで薄目になる。心は100歩下がって目を瞑っている。
私は虫が苦手だった。
娘が産まれて3年間、ずっと昆虫が苦手なことを隠していた。怯える姿を見せて、″先入観″を持ってほしくない。家にハエが入ろうが、洗濯物にカメムシが引っ付いていようが、必死に取り繕ってきた。
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7月、雨上がりの散歩で川沿いの公園を歩いている時だった。娘が草むらに勢いよく入った瞬間、黒い塊が躍り出た。小さく、ブブブ…と飛翔したそれは、ぴたり、と私のジーンズにとまった。
艶やかな羽を持つ虫と目が合い、一瞬、時が止まる。
背筋にゾワゾワゾワ、と嫌な震えとともに、それはそれは大きな声を出してしまった。川の反対側まで聞こえたかもしれない。思わず目を瞑り縮こまっていたが、ハッとする。
娘は私の声に驚いていないだろうか。
昆虫のこと、嫌いにならないだろうか。
草むらに佇んでいる娘と目が合った。
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「だいじょおぶー?」
のんびりとした、娘の少し高めの声が耳を撫でる。強張っていた体が、ふっと緩む。あ、大丈夫そう。昆虫に驚いたのなんて気付いてないかも、なんで期待を抱いてみる。大丈夫だよ、と言いながら、水気を含む草を掻き分け、娘に近づく。
「かかさん、虫すち(好き)じゃないよねぇ、でもだいじょうぶだよ」
言葉に詰まる。なんで、と声を絞り出した。
「まえ、虫さん見て、わーって言ってたの、みたよぉ」
驚いた。えっ、いつ、えっ、とか言っていたかもしれない。娘は真っ直ぐに立ち、凛とした顔で私を見ている。
「だいじょうぶだよ、娘ちゃんが、まもったげるから、こっちおいで」
娘は私の手を掴み、ぐいぐいと引っ張って歩く。力強く握られる右手。娘のまあるい後頭部をぼうっと見た。″守ったげる″だなんて、夫にも言われたことないのに。
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少し歩いて、前を向いたままの娘が、ぽつり、ぽつり、と言葉を落とす。
「ねえねえ、かかさん、虫さんだって、生きてるんだよ」
うん。
「さっきの虫さんは、ちくっとしない虫だよ。だからだいじょうぶなんだよ」
うん。
「おおきい声だすと、虫さんもびっくりしちゃうよ」
うん…
ぽたり、と繋いだ手に水が落ちる。相変わらず前を向く娘の表情は見えない。見上げると、午前降った雨の滴を蓄えた木が茂る。空には淀んだ雲。遠く、薄いくすんだ水色が鮮やかなオレンジ色が見えた。西に沈む太陽から延びた光は、優しく娘を照らす。
そうだね、本当に、そうだよね。
いつまでも、何もわからない子どもじゃないよ、そう言われた気がして、繋いだ手をぎゅっと握り返した。
いつだって子どもは、私たちの先を行く。
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