不耻下问ーー竹子さんは、いつかきっとビッグになりますよ
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【不耻下问】
[日:不恥下問(ふちかもん)]
ピンイン:bù chǐ xià wèn
意味:自分より身分が低い人に対しても謙虚に、恥とせず教えを請うこと。
『竹子さんは、いつかきっとビッグになりますよ』
「このエクセルのフォーマットは、竹子さんが作ったものなのだと、そう聞きました」
ひらっとした痩躯が、突如私の視界の中に現れた。
「教えて下さい、どうやったら、このような機能を付けられるんですか」
小さく曲がった背中。
一心不乱にモニターを見つめる両目。
飾り気のない素朴な笑顔が、今にも消えそうにフワフワと口元に浮かんでいた。
一瞬、戸惑った。
何せ当時の私は、まだ入社したての新入社員。
下っ端の下っ端の立場にいる私に対し、課長クラスのこの男は柔らかく身を下げ、「教えて下さい」と懇願しているのだ。
「これもやはりあれですか、関数やら数式やらを組み込んでいるのですか」
「いえ、これはマクロで……」
「ほぅ、マクロ、ですか」
細い黒縁メガネがきらりと光った。
「それは、どういったもので」
「え…えっと……」
なるべく分かりやすいように必死に説明を試みるも、結局緊張して上手く言葉が出ず、途切れ途切れの解説になってしまった。
「ごめんなさい、伝わってないですよね……」
「いえ、そんな、これはすごいですよ」
まるで子供が宝物を見つけたかのように、K課長は嬉々としていた。
「すごい、すごいですね。僕も自分で、こんなの作りたいと思っていたので」
そしてググっと腰を伸ばし、私の目を真っすぐ見てこう言った。
「竹子さんは、いつかきっとビッグになりますよ」
これが、ひょっとしたら私とK課長の初めての接点かもしれない。
そしてあの日を境に、私達は頻繁に様々な情報共有をするようになったーーとは言え、最初の頃は専らK課長が絡んでくるだけだったのだが。
「竹子さんが営業部内で回覧されている記事、僕も読みたいです。別部署ですが、いただけますか」
「今週竹子さんが作って下さった社内報、とても為になりました」
「いつも仕事の対応が早いですね。助かっています、ありがとうございます」
そうこうしていくうちに、私も徐々に心が開いていった。
いつしか、仕事に関係無く、為になりそうな情報があれば自分からK課長にシェアするようになった。
面白かった本のこと。
ネットで読んだ元気の出るエッセイのこと。
もっと成長しようと、自分なりに取り組んでいること。
K課長はいつも楽しそうに聞いてくれた。
そして、必ずこう言ってくれた。
「すごい、すごいですね。
竹子さんは、いつかきっとビッグになりますよ」
数年の時間が経ち、K課長はK次長へと昇格していった。
私は、相変わらず一般社員のままだった。
その間、私達の話題はどんどん膨らんだ。
読書や英会話、筋トレといった趣味の話をするようになった。
将来実現したい目標、叶えたい夢について語った。
尊敬出来る人物像について話す際は、二人とも「いつかは絶対に立派になろう」と熱くなっては励まし合った。
「出世するんだ!」と私が意気込むと、K次長は必ずこう言ってくれた。
「すごい、すごいですね。
竹子さんは、いつかきっとビッグになりますよ」
また数年の時間が経ち、K次長はK部長へと昇格していった。
私は、相変わらず一般社員のままだった。
ある日、いつも穏やかなK部長が憤慨していた。
「竹子さん、知っていましたか」と。
「竹子さんは、本来今回の査定で主任に昇格するはずだったんです。
でも、身体が弱いから、という理由で……そんな理由で、取り消されたんです。
そんなのおかしいです。僕は、もっと竹子さんの仕事を見て判断するべきだと……」
一瞬、泣きそうな気持ちが心をよぎった。
確かに、私の身体は弱い。
マイノリティ属性持ちで、感覚過敏で、しょっちゅう休みがちだ。
でも、工夫してきた。可能な限り効率を上げてきた。
体調不良があったとしても、仕事が遅れることなんてなかった。
質だって保証してきた。
でも、見てもらえなかったのだ。
こんな目立たない頑張りにつけられる評価ポイントは、1点もなかったのだ。
K部長は相変わらず憤慨していた。
「僕は、もっと仕事頑張って、偉くなります。
竹子さんが公正に評価されるような、そんな人事制度を作ります」
「いいんです、部長。ありがとうございます。それに、私、もうすぐ……」
転職活動を進めてきたこと。
既に中国の会社から内定をもらっていること。
年内には日本を出ること。
そして、もうすぐこの会社ともお別れなのだということを伝えた。
K部長の静かな呼吸が聞こえてくる。
突然の知らせに衝撃を受けたのだろう。
空気がどんどん気まずくなっていくのを感じる。
「あ、でっでも!」
なんとか雰囲気を和ませようと、私はヘラっと笑ってみせた。
「新しい会社の給料、今の倍なんですよ!ある意味めっちゃ昇格ですよ!ね!ねっ?」
束の間の沈黙。
K部長からクスっと笑い声が漏れた。
「ほんと、その通り、その通りです」
そして一息つくと、こう言ってくれたーー
「すごい、すごいですね。
竹子さんは、いつかきっとビッグになりますよ」
またしてもあの飾り気のない素朴な笑顔が、今にも消えそうにフワフワと口元に浮かんでいた。
📚「尊敬に値する人」というのは、つまり「謙虚な人」のことなのだろう
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