心にしこりを残さない為「感情をちゃんと味わおう」と決めたら、20年越しに吉本ばななを好きな理由をようやく言語化できた。
別に聞き分けの良い「良い子」でいる必要なんてない。
例え給料未払いされたとしても「未熟な私だから仕方がない」と無理やり自分を納得させる?
それは違う。
「経験が給料の現物支給」「雇用契約を書面化するのは水臭い」確かに過去に誰かはそう言ったかもしれない。
また別の誰かが確かに名義貸しの片棒を担ぐ話をサラッと持ってきた事もあったかもしれない。
そして「福祉業界的には常態化している事とは言え、名義貸しは自分にはやっぱり無理だ」「結局自分の事しか考えてない人と一緒に長期間働き続けるビジョンが私には見えない」と思い至り、辞意を伝えた途端、「給料出るだけ、前の会社より待遇良いのになんで?信じられない」
誰かの言葉でズッタズタに傷ついて寝込んだ事もあったかもしれない。相対的に待遇が良くなれば法をおかしても何をさせても許されるのか?それが私の経歴を傷つける可能性があり、仮に実際オーナーの知人の複数人が同じようにしていて、相対的には「名義貸しは常識」だとしても、自分のモラル的にやはりそこには同調出来ない。それは社会性の欠如として批判されるべき事なのか?
蘇る、去年あったあんな事、こんな事。
ズキン。
心に刺さる過去の思い出に根を張るしこり。
悔しさ。
怒り。
でも仕方ない・・・?
じゃあ、なぜいつまでも「しこり」として残っているのか。
それはきっと、私が自分の中の怒りを押し込めて、変に物分かりの良い大人になろうとしたから。心まだ心の底からは納得できていない。だから消化されない感情が無意識の中に刻印として残り、いつまでもふとした時に思い出してしまうのかもしれない。
「会社という小さな世界の中の、そこだけで通用する役職の高い誰かの言葉。だからって何なんだ。」
「それって単なる詭弁じゃないの?」
「自分の頭で考えることは悪いことなの?」
「立場が上の人や男性が言う事が常に正しいと誰が決めた?」
「女性は男性の尻拭いの為に存在してる?それいつの時代の話よ?」
「人はそれぞれ価値観も人生の背景も違う。だからこそ、『察してくれ』じゃなくて、大事な所は会話や確認したい」
「業務上の批判は受け止める。でも会社の人に人間性まであれこれ言われる筋合い無いよね?だってそれは単なる価値観の違いなんだから。」
そういう私の本音が一部の人とイマイチ合わず、「体育会系の男なら黙って言う事を聞くのに、女のくせにこざかしい」と公私に渡り今まで何度も散々言われてきた。
なんでこんなに私は社会不適合なんだろう?と悩んだ事は数知れず。
でも思う。
別に物分かりが良くならなくたって良い。
一瞬人間嫌いになったって良い。
人間嫌いになったらなったで「なぜ嫌いと思うのか?」「なぜ怖い」と思うのかを深掘りする事で見える物もある。
世の中色んな人が居て、長い人生、たまには価値観が合わない人と出会う事もある。
社会人として「立場をわきまえ、敢えて負ける」「立場をわきまえ、敢えて引く」事は負けじゃない。
でも、もしその時に感じる「ん?」という違和感やモヤモヤがあるのだとしたら、そこにある押し殺した怒りや「自分に対する値引き」を適切に味わい、その怒りや自分に対する値引きの根底にあるものに気づく事にこそ価値がある。
認知→感情→行動。
気づき、認識する事から行動の変容は始まる。そうして人は何歳になっても成長し変容していける。だからこそ、物分かりの良いフリをして感情に蓋をするのは良くないと私は思う。
もし違和感に気づかないフリをし続けて、器用な大人なフリして通過してしまえば、怒りや自分に対する値引きが無意識の中に「しこり」として残り、変な時に特定の単語や特定の場所、特定のカテゴリーに対して変な怒りや恨みがこもってしまったり、過剰反応してしまう事もある。
少なくとも私はそんな風になるのを避けたい。だからこそ、表現するかしないかは別として、今感じている気持ちをきちんと認識できる自分でありたい。
私が目指すのは「表面的に器用な大人」なんかじゃなく、こっち。
だからこそ思う。
怒るべき時に怒りを感じ、悲しむべき時に悲しみを味わう事は、健全な未来の為に必要な事。
猿山の猿のように、名誉や他人の顔色を追い求める事を人生の生きがいにして、自分の感情に蓋をして、女性や目下の人など、ぶつけやすい誰かに八つ当たりして、周囲を蹴散らしながら生きるような人が居るのも事実。そしてそういう生き方が、沢山ある選択肢の一つである事は間違いない。
そしてそういう人は役職の上の方に多かったりするから、生きるのは、なかなか難しい。
どういう生き方を選ぶかは人によって自由。
一人一人、人生にとって大事にしているものが違うから。
ただ私は、周りを蹴散らすのも、誰かに蹴散らされるのも嫌。だから私は、自分の目指す幸せのベクトルが重なり合う人と繋がれればそれで良い。
誰かの幸せのベクトルが私にとっては弓矢のように刺さったり、まるでストローのように私の可能性や気力や体力や大切な人生の時間が吸い取られて搾取されるのなら。或いは私の幸せのベクトルが誰かを傷つけたり、奪ったりするのなら、別に正面から向き合う必要なんて無い。
表面的に合わせるだけで既に上出来。物理的にも心理的にもお互いに安全に過ごせるだけの距離、心のソーシャルディスタンスを取る事は悪い事じゃない。
「しこりを残さないように生きる。」
今の私にとっては、一番大事にしたいと思っている事かもしれない。
よくよく思い返してみれば、吉本ばななの小説って、どの物語も結局はその事を言っている気がする。今まで何十年も言語化出来てなくて、なんでこんなに好きなのか上手く説明出来なかったけど、登場人物のしこりを残さない生き方が清々しくて心地良くて、吉本ばななの世界観がずっとずっと好きなんだろうなぁと、最近ふと気が付いた。