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一億総活躍する必要って、本当にあるの?それって社会の貧困なんじゃ?という個人的な疑問。

オリンピック開会式でもドローンを飛ばす直前に色とりどりのブロックでシンボルマークを形作っていたを作っていた「SDGs」。

これは2015年9月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に記載された,2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標で、17のゴール・169のターゲットから構成され,地球上の「誰一人取り残さない(leave no one behind)」ことを誓っているもの。

そしてこの考え方は日本の様々な政策の下敷きになっている。けど、個人的には「そもそも一億総活躍せな、あかんのか?」という疑問が正直ある。

高齢者が働く日本、中国人の目にはどう映るのか

コロナ前に来ていた中国人が日本に来てまず驚くのは、様々な場所で清掃員として働く高齢者を見て「日本ではこんなにも歳を老いてもなお働かなければならないのか?」という事だと聞いた事がある。

日本は年金の運用に失敗し、制度自体が危機に瀕している今、「一億総活躍」「SDGs」「多様性」「ダイバーシティ」など耳障りの良い事を言っているものの、別の視点から見れば、老いても死ぬまで働け、障害があっても働け、病気でも働け、寝たきりでも働け、と解釈することも出来る。

そして様々な業種の民営化も実態も「公助から自助への転換」と解釈することも出来る。こんな事では一体何のために給料の1/3を税金として国から吸い取られているんだろう?税金として納めた大量のそのお金は一体どこへ消えているのか?という思いも湧いて来ずにはいられない。でもとりあえず、それはそれで今日はわきに置いておこう。

働く事は社会との接点の選択肢の一つでしかない

もちろん、社会との接点として「働く」という手段を取りたい人が、働くのは大いに結構だと思う。でもあくまでも「労働」は沢山ある社会との接点の中の単なる選択肢の一つであって、絶対条件ではない。だから、社会との接点の話と労働の話は別々に分けて話すべきだと私は思う。

けれど実際は福祉関係の様々な制度が、障害者も労働する事で社会も関わり、それで数字として成果を出してようやく助成金を出す、という形に近年移行していっている。

でも、実際は「社会の接点を持ちたいという気持ちが有っても頑張れない」、或いは「頑張ってはいるけど成果を出すまで至れない」という部類の人達は沢山いて、そういった人達を全部まとめて「成果を出せていないから助成金は出せない」とする今の制度は、弱者切り捨てと言うか、あまりにも乱暴で雑だな、というのが私は個人的な感想だ。

これって他人事の話じゃない

誰だって必ず老いるし、誰だっていつ何らかの形で、例えば血栓が脳や心臓に詰まるとか、事故に遭うとか、難病になるとか、心を病むとか、その他諸々の事情で障害を持つ事になる可能性は大いにある。

自分が元気な時は、ついつい他人事の様な気分になるけど、これって全然他人事では無いと思う。

そもそも一億総活躍しないとダメなのだろうか?活躍する人がいても、活躍しない人がいても、全ての人が笑顔で共存できる事こそ、本当の多様性なのではないだろうか?

そんな事を最近私は時々思う。

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