OSHOという人物 瞑想と無意識について
ブログで何度もOSHOという人物に触れているが、日本だと知らない人の方が多いと思う。僕は結構好きだけれど、日本人がOSHOについて書いた文章をほとんど見たことがないので、紹介してみたい。ただ結構問題のある人物なので、本を読むぐらいに留めておくことを勧めます。オウム真理教もこの人を参考にしたと言われているぐらいで、カルト教団だったのか、本物だったのか未だに決着がついていない。僕の印象では、本人は稀にみる頭脳とカリスマ性を持った人物だったけど、とりまきが悪かったという感じがする。思想のみについて語りたい。
思想を語るといっても、OSHOの思想を語るというのは難しい。ジャイナ教、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、老荘思想、ニーチェ、フロイト、心理学、過去の伝統を縦横無尽に引用して講話をしている。650冊の本があるが、ほとんどが講話を筆記したものだ。だから話があちこちに飛ぶし、引用や寓話やジョークが雑に引用されることがあるし、体系的な思想というものは恐らくない。だから僕なりに補助線を引いて考えているが、OSHOという人物は近代版ブッダである。ニーチェ+フロイト+仏教だ。
体系の否定という部分では、ヘーゲルやマルクスの体系を否定したデリダ、ドゥルーズ、フーコーなどのポストモダンの思想家と重なる。これらの思想家も「真理の体系」を嫌うが、その源泉はニーチェにある。体系の否定を言説ではなく、東洋的な身体技法によって行う。講話でもしばしばマルクスの共産主義が批判されている。
OSHOの最後の講話は「サマサティ」という言葉で締めくくられているらしいが、サマサティとは漢字にすると「正念」になる。現代語訳すると「マインドフルネス」である。「気づいていなさい」ということを650冊の中で繰り返し説いているだけだ。過去の様々な伝統宗教やジョークを交えながら、マインド(思考)を観察して、理解しなさいと繰り返し説いている。仏教もクリシュナムルティもOSHOも本当にそれしか言っていない。「気づきながら生きなさい」「意識的に生きなさい」「自分の身体や心に気づいて理解しなさい」というのが核心のメッセージだ。
気づいたらどうなるのかというと「思考は愚かだ」ということが分かる。欲望は苦しみに他ならない、ということが分かる。分かれば欲望することがなくなるので、人生が楽になる。「分かっちゃいるけどやめられない」というが、分かってしまえばやめられる。思考を観察して、思考がどれほどくるっているのか理解すること。
この「瞑想」や「気づき」に加えて、OSHOにはフロイトの要素がある。つまり「無意識」の概念がある。唯識仏教にも無意識の要素があるが、「カタルシス」の概念はない。
原始仏教に無意識の概念がないのは、恐らく僧侶がみな遊行していたからだと思う。つまり村から村へ毎日歩いていた。すると運動不足にならない。負のエネルギーが発散される。僕の推論だけれど、唯識仏教で無意識が「発見」されたのは、僧侶が寺にこもって運動をしなくなったからだと思う。嫌な感情を我慢したとき、それを後に運動エネルギーとして開放しなければどんどん溜まっていく。4世紀のインドと19世紀のウィーンには「運動不足の人間」と「心を探求する人」が同時に存在したので「無意識」という概念が生まれたのだと思う。現代人が運動不足なのは言わずもがなだ。石器時代と同じ暮らしをしている部族には「鬱」という概念がないらしく、現代人のメンタルヘルスの悪さの原因の大きな原因に運動不足がある。
OSHOは「抑圧されたものを解放せよ」という。具体的にはダイナミックメディテーションと言って、30分間わざと狂気じみた言動で踊り狂い、そのあとに普通の瞑想をする。なんか胡散臭いな、と思っていたのだけれど、自分でその簡略バージョンをしてみると、抑圧していたトラウマが昇華されていったので、効果はあるんじゃないかと思う。ジベリッシュ瞑想というのをやった。フロイトの言う通りに抑圧していたものは「父親殺し」の欲望だったり人に言えない性的事情だったりして、フロイトも適当なこと言ってたんじゃないんだなと感動した。
性や暴力を「文明」によって押さえつけると、それらが内側へ向かって「罪悪感」が生まれるというのはニーチェの主張でもある。僕も全くそう思う。
僕もそうだけれど、多くのメンヘラは「自己主張」というのが極度に苦手だ。嫌なことを断れない。親に否定的なことばかり言われたせいで、自己肯定感が低く、自分を主張できない。その結果、負のエネルギーがふつふつと溜まり、鬱病になる。怒りや悲しみを表現する技術や場面がない。精神分析は金がかかるので、僕は運動と瞑想をしている。
あとOSHOはニーチェに決定的な影響を受けている。たびたび講話にも名前がでるし、日本語訳がないから読んでいないが、ニーチェが主題の講話もあるらしい。OSHOとニーチェの共通点は「超人思想」「唯美主義」「既存の道徳否定」「創造性の強調」にある。
ニーチェの超人を「覚者」に置き換える。OSHOの思想では「自我」や「人格」といったものは仮面にすぎず「ユニークな自己」は自我を落とした時に現れるという。ニーチェの教説である「己自身であれ」の一つの解釈であろうと思う。そしてそれが超人であり覚者だ。
美や自然の強調も似ている。二人とも言葉遣いが美しく詩的であるし、自然への畏敬がある。
道徳否定は一番過激だ。キリスト教やイスラム教や仏教といった既存の宗教はもちろん、現代社会の資本主義や性道徳も批判している。OSHOいわくそういったものは「条件付け」や「洗脳」に他ならず、「大衆的機械」を作り出すに過ぎない。多くの人は道徳という洗脳によって社会の歯車になる。瞑想により心を観察し、その洗脳を解こう、というのがOSHOの主張である。この反社会的な思想がよくなかったようだ。僕も言い過ぎかなと思う。
ただ道徳否定については僕の経験で納得している部分も多くあり、例えば「学歴は高くあるべし」とか「優しくするべし」とか「生産性をあげるべし」とか「男らしくあるべし」とか「父親には逆らうべからず」とか、そういう自分を虐めるような「道徳」が減ったおかげでかなり生きやすくなった。
創造性というのは近代の原理であると思うが、要は自分が神になるという人神思想だ。OSHOの場合は神ではなくブッダだ。瞑想によりブッダになり、人生そのものを創造していく。三島由紀夫や原口統三にその理念がはっきり表れている。
告白。――僕は最後まで芸術家である。いっさいの芸術を捨てた後に、僕に残された仕事は、人生そのものを芸術とすること、だった。
原口統三
このブログの大きな目的の一つに仏教の語り直し、瞑想の普及というのがあるが、OSHOはかなり参考になる。本もすごく面白いので一読を勧めたい。「存在の詩」が初めは読みやすい。ただ先にも言った通り、団体は胡散臭いので僕は近寄らないようにしている。
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