何が問題なのか 死、家族、社会、自分

 「聴く技術」という本に、人の悩みは大別すると四つであると書いてあった。
①人や社会が怖い
②自分を責める
③人とうまく付き合えない
④死ぬのが怖い
 ①と③は少し似ているが、①はあらゆる人が怖いというもので、③は家族や友人など、特定の人との関わりの悩みだ。著者は結構有名なカウンセラーっぽく、信憑性がある。自分で考えても人の悩みというのはこのあたりだろうなと思う。僕の場合すべてに悩んでいたが、②だけは最近よくなってきたし、③と④はまあまあで、①が一番の悩みだ。
 ひとつ前の記事を書いていて、この分類を思い出した。

 人は悩みがある。悩みをなくすのが仏教という教えである。悩みのことを仏教用語で煩悩という。「問題」や「課題」と言い換えると現代っぽくなる。池田晶子は「考えることと悩むことは違う、みんなそこをはき違えている」と書いていたが、本当にそうで、悩むことには感情的な負荷がかかる。「もう何も考えたくない」と聞くことがあるが、厳密には「もう何も悩みたくない」だ。

 摂食障害の本に「摂食障害というのは、食を問題にすることによって、家庭環境などの問題を取り組むことを回避している状態」と書いてあった。これが定説なのかは分からないけれど、そういう面もあると思う。自分の「体重」を「問題」にすることによって、対人関係などの「問題」を見ないようにする。他にも腰痛の本に「腰痛は心の問題が転嫁したものである」と書いてあった。心の悩みを体の悩みに変換することによって、精神的な悩みを悩まなくてよくなる。おそらく「問題」や「悩み」というのは1つか2つぐらいしか抱えることができないんじゃないだろうか。直面した「問題」から回避するために、別の「疑似問題」を作り出して、そちらに没頭する。

①人や社会が怖い
②自分を責める
③人とうまく付き合えない
④死ぬのが怖い

 僕の場合はとにかく④に没頭していた。身体的に弱かったり、身内や友人を亡くしたというのもあるだろうが、それにしてもずっと④に執着していた。「結局死ぬから何も意味がない」が口癖だった。今でもそう思うけれど、それは「事実」であって「問題」ではない。「考え」であって「悩み」ではない。「結局死ぬから何も意味がない」ことによって、感情的な負担を抱える必然性はない。ただの事実だから。M-1でバッテリィズのエースがオチで「生きるのに意味なんかいらんねん」と言っていたが、エースは凄く人生が楽しそうだ。僕の場合は①や②や③の問題を抱えていたのだけれど、それを回避するために④に没頭していたのだと思う。

 虚無、家庭環境、社会、と整理する。人間にはこの全てに問題がある。誰もがそうだと思う。「大丈夫、あのブッダも家族に悩んだ」というタイトルの本があるが、釈迦も大変家族に苦労した。自分は出家したいのに父親は跡を継がせようとするし、妻も出家を止めるし、かわいい息子を置いて黙って出家するし、家庭環境の問題がありすぎる。悟りを開いてからは父親、妻、息子は自分へ帰依するが、母親が「女性も出家させろ」と当時としてはあり得ない要求をしてきて頭を悩ませる。
 どこかの神秘主義者が「誰かが悟っているかどうかは、その人の親子関係を見れば分かる」と言っていたが、たしかに親子仲の悪い「覚者」というのはいなさそうだ。親子関係というのは「虚無」や「社会」と同程度の重みを持っている。フロイトは全ての神経症は親子関係に根があると言っている。
 僕は悟りを開いていないが、瞑想によって「虚無」の問題が癒されてくると、家庭環境などの問題に目が向くようになって、父親との関係などを修復するように努めた。今は結構良好になった。ついでに腰痛もよくなってきた。

 「問題を回避するために疑似問題を作り出す」というのは、他にも様々な場所で見られる。「反出生主義」などは「家庭」と「虚無」を一気に「疑似問題」にすることができるのでお得だ。自分が社会でうまくやっていけていないことの問題を、別の問題に置き換える。生まれていない人も死なない人もいないので、自分の問題を反出生主義や虚無主義に置き換えることはいつも成功する。
 「弱者男性論」や「フェミニズム」も同じで、自分の人生の課題を「社会の課題」にすり替える。おそらくそのあたりの人は自尊心に問題があるので家庭環境が悪いのだが(bioに毒親と書いてある人が多い)、家庭環境には目をつむって社会ばかり糾弾する。「問題のない社会」など存在しないので、自分の問題を社会の問題にすり替えるのはいつでも成功する。

 たえず問題がある。人は問題が好きなのだと思う。ボードレールは悪の華の序文に「倦怠が一番の悪魔だ」みたいなことを書いてるが、人は、金と時間が余ると「芸術」や「哲学」を始めるのだと思う。そして死ぬまで「芸術とはなんぞや」「真理とはなんぞや」と問い続ける。問題がない人は、問題を作り出しさえする。古代ギリシャで哲学が花開いたのは、奴隷に労働をやらせていて、市民は暇だったからだ。芸術や哲学が必ずしも「疑似問題」だとは思わないが、それらの問題には絶対に答えがないだろうなとは思う。死ぬまでしゃぶれるキャンディーだ。

 何が本当の問題なのかというと「自己」である。汝自身を知れ。「問題の対象」というのはいくらでもある。生や老いや死などのスピリチュアルなもの、認識や存在といった哲学的なもの、創作や芸術といった答えのないもの、家庭環境や労働などの社会的活動、いくらでもある。しかし「問題の主体」は一つしかない。「自己」が「問題」をつくる。それを看破したのが釈迦だった。
 実際に問題が消えることはないが、「ほぼ気にならない」程度にはできそうだ。「自分」を標的にしなければ一生悩む。

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げんにび
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