暇と退屈の実践学
「退屈」というのは人間の本質であると思う。哲学者や文学者がよく題材にしている。最近でも日本の教授が本を出しているし、パスカル、キルケゴール、ショーペンハウアー、ハイデガーなどが言及している。特にショーペンハウアーとパスカルは秀逸だと思う。
人生は、まるで振子のように、苦悩と退屈の間を往ったり来たりして揺れている。
倦怠。人間にとって、完全な休息のうちにあり、情念もなく、仕事もなく、気ばらしもなく、集中することもなしでいるほど堪えがたいことはない。すると、自己の虚無、孤独、不足、従属、無力、空虚が感じられてくる。
人間の不幸はすべてただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かにとどまっていられないことに由来するのだということである。
人間の不幸は部屋の中にじっとしていられないことに由来するというのは、本当にその通りだと思う。初めて読んだ時の衝撃が未だに忘れられない。
ピーター・トゥーヒーという人や小谷野敦という人の退屈を主題にした本を2,3冊読んだのだけれど、あまり参考にならなかった。多分、退屈という主題が退屈なのだと思う。本当に面白くなかった。退屈についての話は退屈だから、誰も読まない。退屈というのは人間存在の本質であるのに、十分に考察されていない。
OSHOのJOYという本が本当に好きなのだけれど、退屈について一番深いことを言っていると感じた。ちょっと過激だけれど。
退屈とは偉大なスピリチュアルな現象だ。だから、野生の牛は退屈しないのだ。彼らは完全に幸せで楽しんでいる。人間だけが退屈する。人間の中でも、とても才能があり、知的な人間だけが退屈する。馬鹿な人々は退屈しない。彼らは完全に幸せで仕事をしたり、お金を稼いだり、大きな預金残高を作ったり、子供を育てたり、再生産したり、食べたり、映画に行ったり、レストランに行ったり、あれやこれやに参加したりしている。彼らは楽しんでいるのだ!彼らは退屈なんかしていない。彼らは最低のタイプだ。彼らは野生の牛の世界に属している。彼らはまだ人間ではないのだ。人は退屈を感じ始めた時、初めて人間になる。あなたにはわかるだろう。最高に頭の良い子供がもっとも退屈した子供になる―なぜならば、どんなものも彼の興味をそれほど長くひきつけることができないからだ。遅かれ早かれ、彼は現実につまづいて、「今度は何? 次は何? これはもう終わった。このおもちゃにはもう飽きた。それはもう見た。それはもう開けた。それはもう分析した。もう終わった。次は何?」彼が若者になる頃には、彼はすでに退屈している。退屈するということは、人生や生き方に関するむなしさや無意味さについて、大いなる理解があなたの中に生じつつある最初の兆しなのだ。
OSHO
パスカルやキルケゴールといった「説教本」を書いている人間が、退屈に言及するのは当然であると思う。「退屈」というのはニヒルに直面することであり、宗教的な現象であると感じる。長年無職をしていると、本を読めない時間など本当に苦痛で仕方がない時期があった。僕はネットゲームをしないので、時間を潰す術が本しかない。退屈に殺されるかと思った。
ニートになるには才能が必要だと言われることがある。将来を悲観的に考えない才能と、退屈を紛らわせる才能が必要になる。前者は今は置いておくが、退屈に耐えられなくてニートをやめる人は多い。実際に多く見てきた。初めの3か月ほどは楽しいのだけれど、徐々に退屈と倦怠感が強くなってきて、バイトをする。(喜ばしい)
僕は只管打坐という、ひたすら何もせずに坐るという修行を熱心にしていた時期があったのだけれど、発達障害の多動もあり、坐るのが難しかった。30分ぐらいが限界で、45分坐ると頭がどうにかなりそうだった。1度、限界まで坐ってみたら嘔吐しかけたのでやめた。
只管打坐はどうやら向いてないらしいので、手動瞑想や歩行瞑想といった動的瞑想をしていたのだけれど、そのおかげで意識の安定感(サマーディ)が得られてきたので、もう一度退屈にチャレンジしてみた。
30分、45分じっと坐って、身体を動かしたくなっても我慢して、退屈の不快感が押し寄せてきても坐り続けた。すると、以前と違って退屈が身体から抜けていった。
自分で感じた感想だけれど、恐らく「退屈」というのは人間を動かす最後の砦なのだと思う。「何もせずに坐る」「何もすることがない」というのはパスカルのいうように「自己の虚無、孤独、不足、従属、無力、空虚」を浮き彫りにする。逆に言えば、「何もせず坐る」ということをしなければ、これらは身体や心の中に抑圧されたままになっている。人間の根底的な不幸感は、無意識にこの負のエネルギーが詰まっていることから来る。「何もしない」という行において「無」に対峙することにより、これらの「膿」を出さなければならない。この負のエネルギーを人は「退屈」と呼んでいるのだと思う。
フロイトと唯識仏教が解明したことだけれど、人間は生きていると無意識に様々なエネルギーを背負い込む。そのエネルギーにせっつかれて生きている。幼少期のトラウマは発達障害のような症状をもたらすと書いてあったが、よくいわれる「焦燥感」「そわそわ感」「多動」などは虐待で受け取った「退屈エネルギー」が強すぎるのだと思う。瞑想をしていると、実際に徐々に多動はよくなってきた。
凡夫は五欲六塵にウロタエテおる。そして好きだとか嫌いだとか、得したとか損したとか、エライとかエラクナイとか、金があるとかないとか、勝ったとか負けたとか。ところがそんなこと結局ナンニモナラナヌということがわかって、そうして最後に「ナンニモナラヌ坐禅をタダスル」ということにゆきつかざるをえないのである。
澤木興道
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