良い表現とは何か 普遍の受肉 親鸞と悪の詩

 絵を描いている知り合いに「自分は少女性みたいなことをテーマにしているけれど、同じモチーフの人がたくさんいるし、個性がないかもしれない」と言われたので、少し考えるところがあった。僕は詩作するときには明確なテーマはないのだけれど、自分の感受性だけの作品は書いたことがないと思う。死とか時間とか虚無とかがテーマになっている。自然にそうなっているので、そういう世界観で生きているのだと思う。
 ちょうどキャンベルを再読して神話について復習しているところだった。神話というのは創造、死と再生、処女降誕などの普遍的なモチーフが、文化のバリエーションによって装飾されているらしい。プロトタイプの神話が伝播していったという説と、人間の無意識は同じようなことを考えるというユングみたいな説の2つがあるが、僕は後者だと思う。「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という問いを持たない民族はないだろうし、その答えが似たようなものになるのも当然だと思う。

 詩も「愛」「自然」「死」「時間」「美」「言葉」このあたりのモチーフを古代からずっと繰り返し歌っているだけだ。これらの「すべての人に関するテーマ」をどう解釈してどう表現するかというのが肝だと思う。普遍が個人に受肉するときに個性が生まれる。個人を垂れ流すのは自分語りに過ぎないと思う。例えば高村光太郎や宮沢賢治の妻や妹を亡くした時の慟哭は、非常に個人的な体験ながらも、普遍的で美しい表現になっている。愛とか自然とか儚さとか死が、極めて個人的な経験を媒介にして普遍に高められている。優れた詩人とはそのようなものだと思う。田村隆一や左川ちかのような一見抽象的な詩にも個人的な感情が隠れているし、普遍が個人にどう受肉するかという問題だと思う。
 茨木のり子や山之口貘といった詩人が好きじゃないんだけれど、あまりに個人的すぎて、普遍にまでなっていないからだと思う。
 現代のいわゆる「ポエム」というやつは個人的すぎるか、逆に普遍的すぎてクリシェになっている。「難解な詩」も結局はその辺の塩梅だと思う。

 これを考えていて思い出したのが親鸞だ。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり

歎異抄

 阿弥陀という普遍の救済原理が、親鸞という個人に受肉している。この強烈な意識があったからこそ、近代人から好んで語られたのだと思う。清沢満之、吉本隆明、吉川英治、三木清など。
 親鸞は膨大な著作を残しているが、基本的に、弥陀の素晴らしさと自分の悪を語ったものしかない。普遍=善=社会=教会から離れようとする個人=悪が文学であった西洋近代の構図と似ている。親鸞は現代で一番人気のある坊主だと思うけれど、この辺に鍵がある気がする。近代意識と合致するので、知識人がこぞって喧伝したんだと思う。

 親鸞の場合は「救済」「慈悲」「罪悪」といった普遍的なテーマが個人に受肉して「良い表現」になったケースだけれど、優れた表現というのは全部そうだと思う。宗教というのは普遍の極みであるから、優れた詩や絵画や像が大量に残っている。
 
 茨木のり子さんを仮想敵にするのは少し申し訳ないんだけれど、彼女は「自分の感受性ぐらい自分で守れ」というフレーズが有名だが、自分の感受性だけでは良い表現にならない。自己憐憫や自慰、自分語りにしかならない。テーマに自覚的になること、そしてテーマについて勉強して思索することも、表現にとって大事だと思う。僕の場合、ずっとニヒリズムについて勉強していたので、それがとても糧になっていると感じる。

降り注ぐ光の中
百合の花が横たわっている
あらゆる白よりも白いその花は
世界の背景そのものだった

花を廻りつつ歌う森と風
泉の精はその虚無を出たり入ったり
小波の波紋が光を撒き散らしながら広がる

その百合と共に
世界の両目となる
白んでいく光と共に

真っ白い死の世界
空気よりも透明な死に
そっと触れる

 最近書いたのはこういう感じだった。自分の中の虚無と霊性みたいなものが出てると感じる。モチーフの普遍は「無常」「霊性」「死」「自然」からは絶対に動かないと思うので、引き続き、詩をたくさん音読したり勉強したりしてよい「受肉」ができるように頑張りたい

いいなと思ったら応援しよう!

げんにび
勉強したいのでお願いします