瞑想はなぜ胡散臭いのか 陰謀論、スピリチュアル、カルト
陰謀論が目立つようになったので、その手の本を読んでみた。「あなたを陰謀論者にする言葉」という本で、著者は一時オカルトにハマっていたものの、今は距離をとって懐疑的な立場から研究をしているらしい。「自己啓発」「マルチ商法」「自然派」「スピリチュアル」「陰謀論」がなぜ繋がりやすいのか、というのを歴史的に辿っていて勉強になった。すごく大雑把にいうと「神智学」というオカルト団体が様々なオカルトをごたまぜにして、そこからいろいろ派生したらしい。
近代の物質主義や消費主義を嫌った人々が「精神世界」に傾倒して、ニューエイジと呼ばれる文化を創る。ニューエイジの残党みたいな思想が上記のものらしい。
凄い面白い本だったので、気になる人は本を読んでほしい。スピ系やオカルトを批判する本なので、読みやすいと思う。
個人的に興味深かったのは「瞑想」についての記述で、瞑想がなぜこんなに印象が悪いのかがなんとなく分かった。
現代日本の瞑想の潮流には、僕の知る限り4つの流れがある。1つ目は上記のオカルト瞑想、2つ目はジョン・カバット・ジンによる医学的な瞑想、3つ目は様々な仏教諸国から輸入されてきた瞑想、4つ目は古くから伝わる坐禅である。僕の感触だと、1つ目のオカルト瞑想と4つ目の坐禅のイメージが日本人に根強い。「第三の目を開く」「宇宙と合一する」「無になる」という言葉をよく聞く。
オカルト瞑想はオウム真理教に連なる流れで、始めたのはニューエイジと呼ばれる運動を支えていた人らしい。チベット密教や古代のヨガやチャクラ、クンダリニー、神通力、超能力と「怪しい」要素が満載で、瞑想の悪いイメージはここから来ている。こういうオカルト的な瞑想もあっていいのだと思うけれど、このイメージから瞑想を忌避するのは勿体ない。欧米がチベットやインドからオカルト瞑想を輸入→ニューエイジと呼ばれる運動→その流れで日本へ→オウム真理教、ということらしい。ニューエイジはLSDなどのドラッグも行っていたので、瞑想=飛ぶみたいなイメージが強くなった。
二つ目のジョン・カバット・ジン博士による医学的な瞑想(マインドフルネス)は、慢性的な痛みやストレスを抱えている患者に有用なツールとして、仏教から宗教色を抜いて、治療用のツールに書き換えた。そのマインドフルネスをGoogleやアップルなどの企業が「ビジネスマンの疲労解消ツール」として社内に瞑想スペースを置いたりカリキュラムを創ったりした。日本の意識高い人はジョブズやGoogleが大好きなので、一時期はマインドフルネスのビジネス本が書店にかなり並んでいた気がする。ちなみにジョブズはこの潮流ではなく、上記の「ニューエイジ」の流れで禅をしていたらしく、すい臓癌を患った時に西洋医学を拒み(ニューエイジは科学を嫌う)、民間療法に頼ったことで寿命を縮めたらしい。
仏教→医学→ビジネスという流れがある。このマインドフルネスはオカルト色が一切なく、リラックスや感情のコントロールを主眼としている。
心理療法にも使われていて、僕がマインドフルネスを始めたのは心理療法の文脈だった。
三つ目はスリランカ、ミャンマー、タイ、チベット、ベトナムなどの国から、仏教の瞑想が「輸入」されてくる流れだ。日本は元々仏教国なのだけれど、瞑想らしい瞑想は、恐らく曹洞宗の只管打坐と臨済宗の公案禅ぐらいしか行われていなかった。坐禅は一般人には難しいので、明治時代の仏教書や自己啓発書を読むと「静座」というものも行われていたっぽいが、今の時代には聞かなくなった。
釈迦が教えたのは「サティ」や「気づき」と言われる瞑想なのだけれど、それを中国が解釈した「禅」というものしか日本に伝わらなかったので、20世紀になって初めて仏教本来の「気づきの瞑想」というのが伝わってきた、ということらしい。「サンガ出版」という出版社が凄く力を入れていて、スマナサーラというスリランカのお坊さんや、アチャン・チャーというタイのお坊さんの本を大量に出版していた。この文脈で瞑想を始めた人も多いと思う。
「観察瞑想」とも呼ばれていて、身体や感情や思考を「観察」することによって、世界が「無常」であることや「無我」であることを洞察して、執着をなくすという世界観だ。「観察」というのは科学的なものであるので、現代人にも受け入れられる。ただ、テーラワーダ仏教と呼ばれるこの流れは「我々こそがブッダの真理の教えを保持している」という意識が強いことが多く、個人的にはそこがあまり好きではなかった。他宗教の悪口もよく本に書かれていた。釈迦は全てに執着するなと言っているのに、仏教に執着してしまうのは皮肉な話だ。
細かい話をすると、タイやミャンマーやスリランカで「2500年前から続いている」と謳われているこの「ヴィパッサナー瞑想」「観察瞑想」は、実は最近発明されたものであるらしい。「ゴエンカ」という人や「マハーシ」という人が有名だが、こういった近代の人間が仏典を解釈して始めたものらしく、〇〇式ヴィパッサナーというのが何個もある。モゴ式、パオ式、ゴエンカ式、マハーシ式など…。同じヴィパッサナー瞑想なのだけれど中身は全く違っていて、互いに「あれは本物じゃない」と喧嘩をしている。
四つ目は先ほど書いた通り「坐禅」で、道元や白隠などが活躍した中世や近世の頃から細々と続いているらしい。どこかに断絶とかがあるのかもしれないが、そこまで細かく文献は辿れないと思う。この流れで坐禅をしていて有名なのは安泰寺という寺で、沢木興道や内山興正、ネルケ無方さんや藤田一照さんなど、仏教界隈で有名な人を多く輩出している。本気で坐禅に取り組んでいる寺は他にもあるのだろうけれど、表に情報が出てこないので分からない。「井上派」というところも有名だ。
僕自身は二の心理療法の文脈で始めたけれど、テーラワーダ仏教や只管打坐も通ってきた。一時期は悟りたくて仕方なかったが、あまり悟りに興味もなくなってきたので、「気づきながら生きる」という瞑想的な日常を送ることにしている。仏教の文化は大好きだけれど、仏教に執着しすぎるのも違うかなと感じてきた。オカルト瞑想は気持ち悪いし、坐禅は敷居が高いので、医学的、ビジネス的マインドフルネスから始めるのがいいかなと思う。本もたくさん出ているし。
瞑想的な生き方と、瞑想的でない生き方がある。自己に気づきながら生きる生き方と、自己に無意識な生き方がある。僕が瞑想をしているのは「苦悩を減らしたい」というのもあるが「自分が何者なのか知りたい」というのが大きい。哲学やら文学やらで言葉をこねくり回しても、自分が誰かというのは絶対に分からない。身体、感情、思考、などを日常的に観察することで、徐々に自己や世界の「カラクリ」が見えてくる。実際に見えてきたので続けている。押し売りをしても絶対に続かないので、無理にやらせたりはしないが、精神的にまいっている人や、自己探求に関心のある人には無料だしよく勧めている。哲学者の永井均も瞑想を続けているらしいが(安泰寺の人との共著も多い)「自己とはなんぞや」と問うていったら瞑想や坐禅に辿りつくと思う。