感情の抑圧についての考え 瞑想と精神分析
母親が死んだ時に泣かなかった。祖母に「泣きなさい」と言われたけれど、泣かなかった。後に瞑想をしているときに、一気に悲しみが噴き出てきた。祖母が正しかったのだと思う。
ASDの特徴なのか、家庭環境なのか分からないが「良い子でいなければならない」という観念が強く、わがままを言うことや甘えることや怒ることがあまりなかった。親に甘えた記憶がほとんどない。そういった飢餓感が幼い頃から絶えずあったと思う。寂しいという感情が常にあった。今でも詩を書くと、孤独をモチーフにしたものが圧倒的に多い。
恋人も機能不全家庭で育っているのだが、たまに発狂することがある。普段からは考えられないぐらいの声で怒鳴りあげるのだが、不思議と発狂したあとはスッキリした顔をしている。嘘みたいにスッキリしている。僕も恋人に今までで一番強いぐらいに怒ったことがあり、その時は喉から血が出た。そして僕もスッキリした感覚があった。身体が軽くなった。
「抑圧」という概念はフロイトに由来している。唯識仏教以外のスピリチュアルの伝統に、一切「無意識」や「抑圧」といった概念が存在しないのを不思議に思っていたけれど、19世紀にフロイトが意識中心主義から無意識へパラダイム転換するまで「無意識」などという発想がなかったのだと思う。だから僕の知る限りでは、初期仏教も禅仏教も密教も念仏も、まったく無意識を扱っていない。
逆に20世紀のスピリチュアルの伝統では「抑圧パラダイム」で霊性を語ることが多くなる。「浄化」とか「クリーニング」という言葉が流行る。OSHOやクリシュナムルティなど、西洋的な教育を受けている人は抑圧を重視しているが、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジなど全く教育を受けていないインド人は、抑圧を語らない。現代日本で有名な、ゴリゴリの初期仏教原理主義のスリランカのお坊さんは、無意識を認めていなかった。
僕としては、無意識は存在すると思う。「身体の緊張」として、はけ口を見つけられなかった感情が身体に埋まっている。「肩こり」や「慢性前立腺炎」や「自律神経失調症」に悩まされていたのだが、これらは身体の緊張=感情を解放することで改善した。
「ヒーリング・バックペイン」という腰痛の本があるのだが、そこで著者は「腰痛というのは怒りという心の問題を抑圧したもので、心が"問題"から目をそらしたいがために、痛みをでっちあげている」と主張していた。その情報を与えると、腰痛が改善する例が多いらしく、アマゾンのレビューやブログなどでもこの本を読んで腰痛が改善した人が多く見られた。僕も改善した。
「抑圧された感情」を浮かび上がらせるための条件として、3つ考えられる。
一つ目は、「意識の受容力を高める」ことだ。マインドフルネス瞑想をしていると、徐々に「サマーディ」とか「禅定力」と呼ばれる「心の安定感」が強くなっていく。一定のラインまで、受容力が高まると「そろそろいいかな」と抑圧されていた感情が顔を出す、ような感覚がある。感情を抑圧しやすい人はメンタルが脆い傾向にあると思うので、訓練していない意識に感情がやってくるとフラッシュバックを起こしてパニックになってしまう。個人的な体験では「身体の知恵」がその辺を調節しているのだと感じた。
二つ目は、「受け入れられる環境に身を置く」ことだ。最近「安全に狂う方法」というタイトルの本が出て気になっているのだが、「この人なら受け入れてくれる」と心のスイッチが入れば、身心が勝手に無意識を吐き出してくれる。それを技法化したのが「カウンセリング」という心理療法だ。なんでも受け入れてくれるという信頼感があれば「身体の知恵」がそれを察知して、無意識に「もう出てきてもいいよ」と合図を出すのだと思う。逆に否定的な人の前にいると、緊張して何も話せなくなってしまう。
三つめは、表現だ。ダンスでも、絵画でも、詩でも、ブログでもなんでもいいのだけれど、身体的、言語的、視覚的な表現を行うことで、それに伴った感情が引っ張り出されてくる。トラウマ関連の本で推奨されていたのは「演劇」と「ヨガ」だが、僕は「詩の音読」が好きだ。最近は詩作のためにリズム感を鍛えようと思って一人で部屋で踊っているのだが、踊るのも心地よい。OSHOはダイナミック瞑想というのを提唱していて、坐って瞑想をする前に、飛び跳ねたり大声を出したり「狂う」ことを推奨している。
他にもあるのだろうけれど、僕が勉強したり体験した限りだとこんな感じだ。精神分析というのは金がかかるし日本ではほぼ行えないので、瞑想をしながら詩を書いてダンスをしている。
「抑圧」という概念は有用だと思う。仏教とは「今に佇む技法」のことだが、「今」にいると「過去」が襲い掛かってくることがある。身体的な過去を殺すことを解脱というのだと思う。輪廻というのは身体的過去の宗教的表現なのかもしれない