見るということ 物質と他者

 僕が不思議に思うのは「存在していること」「言葉が伝わること」なのだけれど「見えること」も不思議に思う。哲学の言葉で言えば存在論、言語論、認識論になると思うけれど、知識の認識ではなく、この今目の前にあるものが知覚できるということがよく分からない。未だに「知覚」のメカニズムがどうなっているのかよく分からないのに、自分や他人が普通に生きているのもよく分からない。一回ゆっくり考えてみたかったので、書きながら考える。

 マインドフルネスをしていると、全ての物が「生命」に見えたり「心」に見えたり「自己」に見えたりする。なんでそうなるのかはよく分からないけれど、脳科学的な説明でもそうなると思う。現代科学では、モノに反射した光が網膜にぶつかって、その振動が神経に伝わって(なぜか)「映像」が生まれるという説明をするけれど、その映像は「脳」という「生命」の中で完結しているものなのだから「映像」が「生命」であるのはおかしいことではないと思う。その「映像」を見ているのは誰なのか?という問題などいろいろあるけれど、映像は多分生きていると思う。少なくとも「心」ではある。映像と夢は同じ身分で存在している。

 「視覚」に限って考える。視覚でないものは「視えるか?」と問われれば、視覚でないものは見えない。「視覚」しか存在しない。バークリーという観念論者も同じ立場だが、バークリーに反対している唯物論者が石を蹴って「これでバークリーを反論できた」と語ったらしいが、石も「視覚」でしかない。科学的にいうと、脳が創った映像でしかない。

 さっきから「脳」の話をしているが、脳も実は「映像」でしかない。麻酔をかけて頭をくり抜いて鏡を何個か上手く使えば、自分の脳が見える。脳は映像の身分でしか登場できない。

 仏教に「眼耳鼻舌身意」といわれる六つの要素がある。唯識仏教にはこれに加えて末那識と阿頼耶識も加えるが、常識的に考えてもこの六つしか世界は存在しない。「見たもの」や「聞いたもの」しか存在せず、その「奥」に「物質」や「物自体」が存在するという証拠は何一つない。
 「視覚」や「聴覚」という「感覚」から「抽出」した「概念」が「物質」である。眼を閉じると世界はなくなる。
 現代科学的な「粒子仮説」を立てたのはジョン・ロックである。「延長」という一次性質を持った「物質」が、「延長」している身体にぶつかり、第二次性質である「色」や「香り」などを表現する。バークリーは「延長」も「色」も「香り」も全て観念だろうと反駁する。僕もそう思う。

 「延長」がなぜ特別視されるかと言えば、数式にできるからだと思う。幾何学は古代からずっと発達している。一方で、色や香りなどは直接的には数式にできない。数式にしやすいから「便利で扱いやすい」のだけれど、それ以外に特別視する理由はないように思える。「延長」は「物質」ではなく「観念」である。

 「意識の外」というものは、端的に存在しないんじゃないか。もし存在するとしても、「意識」できない。不可知か存在しないかのどちらかである。前者の立場がカントで、後者の立場がニーチェであるが、後者の場合のニーチェは不徹底であるように思う。ニーチェは「背後世界など存在しないから大地に根付いて強く生きろ」というが、本当に「感覚」しか存在しないのならば、全ては「夢」と同じ権利を持ったものでしかなく、「強く生きる」という倫理・趣味は導かれない。「背後世界は存在しない」というテーゼから導かれる倫理は「戯れる」という倫理だと思う。

 本当に、意識しか存在しない、と思う。認識と存在は同じだ。なぜ「物質」という概念が要請されるのかというと「他者」が存在しているからだと思う。「客観的な木」が存在していなければ、共通な認識を持つことができない。世界は感覚で夢なのだけれど、他者の介入により「物質的現実」が要請される。

 「感覚の奥にある物質」というのは他者とコミュニケーションをとるために要請されるのだから、他者を認めなければ物質は存在しなくなる。逆に、他者を認めれば「そこの木」が自分の意識の外にあることも認めることになる。唯物論というのは、他者を前提とする。

 では「他者」とは何なのか?と考えると、二つの分岐があるように思える。一つは「視覚や聴覚といった感覚である」というものと「自分と同じように意識をもった主体である」というもの。一つ目からは独我論的観念論が生まれ、二つ目からは物質論が生まれる。厳密に考えれば、他者というのは「身体」である。「他者の身体」は「私の視覚」である。だから他者は存在しない。ぬるく考えれば、他者も同じように意識を持っている。この二つのどちらを取るかというのは難しい。

 ところで僕は今「言語」を使っているが、言語を使っているということは他者を前提としているんじゃないだろうか。言語は他者を前提として、物質は他者を前提とする。だから「全ては観念である」という観念論は成立しない。厳密な観念論は他者を排除するから、言葉を使った「論」になる必要がない。

 「自分の意識の外部に"何か"が存在する」という信念は、「他者」ありきであるから、倫理を要請する。意識の外部を認めることは、相互主観的な「他者」を認めることであるから、倫理は存在に先立つと語ったレヴィナスと響きあう部分があるような気がする。

 「見ること」や「物質」について考えたら「他者」に行きついたのが面白かった。考えながら書いていてあまり整理されていなかったので、少し整理した。「他者」がいればこそ、物質が存在し、倫理も存在する。サイコパスというのは恐らく独我論的な観念論者なのだと思う。観念論と唯物論というのは、認識論や存在論ではなく「倫理」の問題なのかもしれない。

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げんにび
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