メンヘラについて考えたこと総決算 メンヘラ論 モラハラ論
メンタルヘルスの問題を考えているうちに、自分なりの構造が見えてきた。すごく単純化していると思うが、パターンや傾向として存在するのではないかと思う。
まず中心に「無」がある。中心は空である。何もない。これを仏教で無我という。自我というものは存在しない。
その無を覆うように「自己嫌悪」が存在している。「自分は人より劣っている」という意識がある。主に幼少期の家庭環境によって形成されることが多い。虐待やネグレクト、モノ扱い、過保護など、原因をあげたらキリがないが、自己に向かって否定的な思いを抱いている人は、無意識に不幸になるような行動をとるようになる。最近は風呂キャンセル界隈とか言われているが、セルフネグレクトはこの層が働いている。自傷もそうだし、過度な飲酒や自殺願望、希死念慮、慢性的な鬱、人間不信、不幸な恋愛関係、など。
自己嫌悪の周りに「防衛機制」が張り巡らされている。「自分のことを殺したいぐらい憎い」ということを直視しないために、あらゆる手段がとられる。男性は歪つな自己愛がメインで、女性は自己憐憫や同情を誘うような行為がとられることが多いように思う。前者は俗に「モラハラ気質」と呼ばれ、後者は「メンヘラ気質」と呼ばれる。
この第三層の特徴は「イメージ」で構成されているところだと思う。「自分は偉大な人間である」だとか「社会や親の被害者である」だとか、そういった「定義」や「イメージ」で「正当化」を行う。典型的なパターンでいうと、男性が成功というイメージに依存していたり、献身的な女性を支配する俺というイメージに依存したりする。「イメージ」という言葉を使うのは、このイメージは「自己嫌悪」を隠すための「虚構」なので、実体がないからだ。頭の中にしか存在しない。世界は関係で成り立っているので、「偉大な俺」というイメージを構築するためには世界や関係を構築する必要がある。「見下してもいい人」というイメージの箱の中に人を閉じ込めて、イジめる。この対象をネットでは「タゲ(ターゲットの略)」と呼ばれるが、タゲられた人は、加害者の空想世界の「NPC」になってしまう。NPCというのは実際にモラハラをしている男性が実際に言っていた言葉で、言いえて妙だと思う。ノンプレイヤーキャラクター。ゲームに出てくる村人は「人格」が詰まっていないが、それと同じように「モノ」のように扱う。「なにをしてもいい相手」として扱う。「上下」というイメージが絶対的に成り立っているので、罪悪感も抱かない。その二者関係の中だけで「空想世界」が成り立っているので、社会では成功していたりする。体験談を読むと「社会での完璧な俺」を維持するためのエネルギーを補給するために、タゲをいじめるようだ。男性にこのパターンが多いのは、男性は社会的に「強さ」を求められるからだと思う。ただ、モラハラ女というのもたくさん存在する。モラハラとメンヘラというのは同じコインの裏と表だと僕は思っている。メンヘラ女性が悲劇のヒロインをしている男性以外の男性には「騎士団」とか「客」とか「おっさん」とかいって加害性をむき出しにしているのを見る。
第三層には男性性と女性性があるが、女性性は「メンヘラ」だ。被害者と言っていいかもしれない。こちらも同じく「イメージ」で対人関係を構築している。境界性パーソナリティ障害などでよく「理想化とこき下ろし」という症状が言われるが、それは「人格」ではなくイメージと恋愛をしているからだ。自己⇔他者という関係性の世界がイメージで構築されているので、自己の「ヒロイン性」を確保してくれそうな男性を過度に理想化するが、イメージにそぐわなくなるとヒロイン性を供給してくれなくなるので、「裏切られた」と感じて激しく攻撃をする。「助けてほしい」「救ってほしい」という信号を発することが多いが、実際は助けてほしいのではなくヒロインと王子というイメージの中で安住したいだけなので、自身の治療には専念しない。むしろ治療を拒む。
まとめると、まず中心に無がある。その周りに幼少期に形成された自己嫌悪がある。またその周りに「イメージ」の領域として「主人公」や「ヒロイン」といったものが存在する。イメージの存在意義は、根底にある自己嫌悪を直視したくないためだ。「虚勢を張っている」モラハラタイプの人間はもちろん、自分の万能感を維持するために「自分のことが嫌い」ということを死んでも認めないが、メンヘラタイプの人間も「助けられる側」というイメージを保持したいがために、「本当の自己嫌悪」に触ろうとしない。心配されたいので自傷や言葉などで自己嫌悪のメッセージは発信するが、自己嫌悪そのものには触らない。病院には行きたくないしカウンセリングも受けたくない。
社会問題だとも思っていて「モラハラ」や「メンヘラ」が増える背景にはSNSによる劣等感の煽りや競争社会などが存在していると思う。「SNS如き」と思っている人も多いかもしれないが、SNSというのは「虚像」「イメージ」を発信する媒体なので、この第三層をより加速させる。「成功者」というイメージをフェイスブックに投稿する。「病んでいる」というイメージをツイッターに発信する。イメージは強固になって、より根底の「自己嫌悪」が見えにくくなる。そして他人の「完璧なイメージ」を目にすることにより、余計に劣等感が加速する。
中心に「無」という概念を配置したのは、「イメージ」と「自己嫌悪」という層を潜り抜けることでしか、無我や寛容といった徳は養われないからだ。「自分は無私の人間である」というのは悪質な「イメージ」かもしれない。そういうパターンもよくみる。シモーヌ・ヴェイユや宮沢賢治というのはこっちなのではないかと思っている。無私や無我のフリをしているが、どうも演技性があるような気がする。根底には自己嫌悪がある。
「太陽と死は直視できない」という言葉があるが「自己」というのも実は直視できない。そのための方法論として坐禅や瞑想といったものがあるが、本当にみんな瞑想が嫌いだ。パスカルという人は並外れた洞察力を持った哲学者だが、こう書いている。
瞑想(マインドフルネス)というのは「自分の見たくないものを見る」という作業であるので、そりゃ誰もしたがらないと思う。「見たくないもの」は見たくない。ゴキブリは見たくない。ムカデも見たくない。しかし自己の心の中にゴキブリやムカデが巣食っているのを放置したまま生きるほうがしんどい。虫歯は放置するほど悪化するが、少し痛いのを我慢すれば痛みはなくなる。
他にも様々な心理療法があるが、結局は見るか見ないかだと思う。見るか見ないかだ。